北の庄城と福井城

2024年04月04日

北の庄城と福井城


 信長から越前を任された柴田勝家が1575年北の庄城を築く。 ここは九層の天守を持つが七層の安土城をしのぐ天守であったという。 1583年の賤ヶ岳の合戦に敗れた勝家は3000の兵とともにここにこもり、秀吉に敗れてお市の方と勝家は自害した。

 現在は勝家神社の周辺に石垣が残り、面影はない。 小さな資料館があるが開館前の時間(0900)であったので見ていない。



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   九層の天守  



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  北の庄城 石垣


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  柴田神社  本丸があったという


 前田利家は信長から配備された柴田勝家の寄騎の武将であった。勝家が秀吉と対立するようになると微妙な立場に置かれる。利家が秀吉の側に付いたのは知っていたが細目は自分には不明であった。 ここでの説明書板を読んでいていて分かる。 賤ケ岳の戦いに敗れた柴田勝家は敗走していた身でありながら、利家に秀吉に加わるように促したということであった。





    福井城


  ここは北の庄城の遺構を大きく改変して、一六〇一年から家康の次男で豊臣に養子に行き結城家を継いだ結城秀康が築城した。



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 福井城と北の庄城 周辺



残念ながら、堀は二の丸と三の丸が市街地になり消滅し、本丸の周辺にのみ残っている。 本丸には現在の権威の象徴である県庁ビルが建っている。 天守台には四重五層の天守があったが1669年に焼失した。

  
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  ご廊下橋



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  天守



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 本丸より内堀を望む


   結城秀康 1574-1607

  家康の次男で秀吉の養子となり秀康という名は家康と秀吉の名よりなる、その後に結城氏の養子となった。



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 結城秀康

 詳しくは、 誕生しても正室の築山殿に認知されずにいた。 築山殿の死後認知される。 長男信康の切腹後には弟・秀忠が後継とされた。 小牧長久手戦いの和平の条件として秀吉のもとへ人質・養子として送られる。 1584年河内の国1万石を与えられる。九州征伐で軍功をあげる。小田原征伐後に結城家に養子に行き10万石を得た。関ケ原の際には上杉の備えとして宇都宮に留まる。越前北の庄を賜り68万石を得る。


    2024-4-4