10年のヨット総括  ① 課題と目標

    

 2016年の春に2代目速魚を購入してから10年になります。沖縄以外の全国をこれまで巡ることができました。 残生も限られてきたことから、この10年をまとめてみました。

 

 2026年の速魚2

 

 その都度の思い付きで関心に関心を持ったことについてその巡航計画を立ててきた。その項目は後に書くことして、これまでの航海は下記になります。

 

 

   2016年より2026年まで

 

 2016年3月 香川県丸亀にあった中古のヤマハ31フェスタを購入。坂出のマリ-ナに係留。旧オ-ナ-の今田さんと練習クル-ズを行う。

 ① 2016年 練習クル-ズ 

 

マリ-ナ探しのために坂出から玉野と三原へクル-ズした。

 

  ② 2016年 夏  マリ-ナ探し

 

 半年の坂出を離れて広島・廿日市のマリ-ナへ移る。  2017年み旧オ-ナ-今田さんと愛媛県かわうそ村海の駅までクル-ズした。  香川県坂出市を中心としたクル-ズ  まとめ

 

 ③ 2017年 夏巡航

 

 2018年 北部九州へ行き長崎を訪れた。

 ④ 2018年 長崎へ

 

 今度は九州東岸を目指したがホンダワラのペラ巻きに悩み、延岡で断念する。

 ⑤ 2019年 延岡へ

 

 2019年秋には東瀬戸内を周航した

 ⑥ 2019年 秋 東瀬戸内

 

 ⑦ 2020年春 笠岡諸島へ

  

 2020年 秋  四国中部北岸へ

 ⑧ 2020年 秋 四国中部北岸へ

 

 2021年 春巡航は休み

 

2021年 秋周航は 愛媛県伊予、内子町、卯之町へ

 ⑨ 2021年 秋 瀬戸内中部へ 内子町と卯之町

 

 2022年 春  隠岐の島へ

 2022年 春 島根県隠岐へ

 

 

 2022年 秋 長崎県 五島列島から大村へ

⑪ 2022年 秋 五島列島、 大村に翌年春まで係留

 

 2023年 春 大村より南九州、 宮崎日南で3週間入院、倉敷へ

 ⑫ 2023年 春 大村より南九州へ

 

 

 2023年 秋  四国88ヶ所を開始、 徳島へ

⑬ 2023年秋  お遍路寄港開始

  

 2024年 春  四国88ヶ所 お遍路再開

 ⑭ 2024年 春  お遍路寄港図

 

 2024年 秋  忽那七島へ

 ⒂ その2  忽那七島

   

 2025年 春 石巻へ  48年ぶりに日本1周を達成、宮城県亘理に来年の春まで係留

 初代速魚の48年前の 宮崎日向から石巻へ

 

 2025年 秋 亘理より田代島へ、 陸路で奥州を観光

⑰ 2025年 秋 亘理から田代島へ、 赤行程は陸路の訪問地

 

 2026年 春  塩釜より倉敷へ

⑱ 2026年 春  塩釜より母港倉敷児島へ

 

 

 小生の主な関心ごとは歴史に関する物である、下記に興味を持ってヨットで訪ねた事項を書いた。

 

海賊

  塩飽海賊と人名政

   村上海賊

  忽那海賊

 四国巡礼88ヶ所

 隠れキリシタンと世界遺産、 

   五島列島の教会

 維新英傑 

    高杉晋作

   坂本龍馬

   吉田松陰

   筑前勤皇党、  幕末芸州藩、 

  歴史的町並み

   萩城下町 1と2

   徳島阿波の神社巡り

  城廻1 と 2

    薩摩 麓(ふもと)武家屋敷12  日本遺産   

 

           2026-6-26




 

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羽柴秀吉の四天王

 

 

   

 秀吉が長浜城主になったころに250貫文(500石?)の所領を下記の四天王に与えられた。 秀吉には古くからの家来は少なく、親類にあたる福島正則と加藤清正位しか小生には記憶が無い。 ウィキ的な知識になるが調べてみた。


 

  神子田 正治 ・みこだまさはる  不詳-1587 [

 

 

 

 織田信長が尾張国を統一した際に、父とともにその配下に入ったといわれる。永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いや永禄10年(1567年)までつづいた美濃国の斎藤氏攻めで功績を上げ、木下秀吉に請われて家臣となる。秀吉の長浜城時代、 天正元年(1573年)に近江国に250貫文の所領を与えられ、黄母衣衆となり、後に腰母衣衆に転じた。中国攻めに従軍して、三木城攻め(三木合戦)などで活躍。天正5年(1577年)、宮田光次、戸田勝隆、尾藤知宣と同時にそれぞれ播磨国で5,000石を加増された。1582年)の本能寺の変後も秀吉に従い、山崎の戦いに参加。賤ヶ岳の戦いでは一軍を率いた。その後に備中庭瀬城主として1万2,000石に加増された。小牧・長久手の戦いにおいて(敵前逃亡)を問うとして、所領を没収した上で高野山へ追放とした

 

 

 

  尾藤 知宣 ・びとう とものぶ   不詳-1590 

 

 織田信長の家臣である森長可に仕えていますが、羽柴秀吉が近江国長浜城主になる頃より羽柴秀吉の家臣になります。 墨俣に一夜城を築いたときに駆けつけて、秀吉の家人となった。(1577年)近江国長浜で250貫を与えられ、秀吉が長浜城主となった知行配分のときに1,800石を宛がわれている。羽柴秀吉が中国方面の司令官になるとともに加増されて5000石になります。(1584年)の小牧・長久手の戦いでは小牧山攻めを提案した森長可の意見を承認し、軍監(軍目付)として共に出撃したが羽黒で徳川氏家臣の酒井忠次、榊原康政らの奇襲を受けて敗走.(1585年)、播磨の高砂で2,600石を加増された。6月、羽柴秀長を大将とする四国の役に参加 1586年)に讃岐国宇多津5万石に封ぜられ、同年、讃岐丸亀城主(18万石)になった[ 1587年)、九州の役では、戸次川の戦いで失態を演じて改易された仙石秀久の後継として軍監に就任し、秀長の下で3,000名を率いて九州征伐に従軍。日向国高城攻略中、宮部継潤の守る根白坂砦が島津氏の援軍に攻め込まれた際に救援をさせなかったことを秀吉が激怒し、その咎を受けて、7月2日、知宣は(丸亀の)所領を没収され、追放

 


 

  宮田光次・ みやたみつぐ 不詳-1578 

 

 羽柴秀吉が近江国長浜城の主になったのが1573年。宮田光次は、その頃から羽柴秀吉に仕えたと考えられています。
長浜近辺で250貫の所領を与えられた。秀吉が織田信長の命令で毛利氏攻めの中国方面総司令官に任命されると、中国遠征に従軍し、播磨国内で5,000石を与えられた。別所長治の三木城攻めで討ち死にした(1578年)、

 


 

  戸田勝隆 ・とだかつたか  不詳-1594 

 

 はじめ織田信長に仕え、その後は織田氏の臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となった。長浜で250貫文を与えられ、(1577年)、秀吉が播磨姫路城主となった際に、5,000石に加増された。 その後も順調に出世をし、1587年には伊予国のうち7万石を与えられます。文禄・慶長の役に際して、帰国の途中に病死をしています。

 

 

  別説もあるようです。

    https://www.youtube.com/shorts/Y8otidih4Xk

 

 

   矢部家定・やべいえさだ  不詳―1590以前

 

 尾張に生まれ若い時より信長に仕えて奉行5人衆となる。本能寺の変までは秀吉とは縁が無かったようだ、織田信孝の四国攻めに同行していたが淡路に居て本能寺の変後の軍の散逸を免れて、秀吉の中国大返しの軍に合流する。山崎の戦いに参加。以後は秀吉に従う。

 子が無く養子の定家は1万石を領したが関ケ原で西軍に属して改易された。

 

 

   青木重短・あおきしげのり  生没不明

 

大政所の妹を娶った[6]ことで、秀吉の叔父となり、豊臣家の一門衆に列した。禄高、所領などについては不明であるが、武将として特に活躍したという記述もない。賤ケ岳の戦いでミスして消えたとある。


 
 

    賤ヶ岳7本槍 その後  

      http://hayame.sblo.jp/article/174483255.html?1781403302

 

    

   

           2026-6-20

 

 

 

源範頼  まとめ

 

 2026年のNHKの大河は秀吉の弟・秀長をやっています。 秀長が先に死なねば豊臣は滅びずに、徳川になることは無かったであろうと云われるのとは違い、範頼は最後は兄に疎まれ、追手により殺される悲劇の人となりました。

  10年余になる自分のHPやブログにある範頼をまとめてみました。

      2026-6-16


 

   源範頼

                   
  

 1150-1193?

  源範頼は義経と同様な運命になった割には知られていません。地元にゆかりがあると言われるので調べてみました。

 範頼は頼朝の異母弟で、義経の異母兄です。 遠江国蒲御厨で生まれ育ったので蒲冠者,蒲殿と呼ばれる。 兄の頼朝の代官として源義仲(木曽義仲)追討の大将軍となり、上洛して弟の義経軍と伴に義仲を滅ぼす。 一の谷合戦では3万と言われる主力大手軍を率いて戦い、また義経軍は1万の搦手軍を率いてその奇襲により平家に勝利した。 その後中国と九州の平氏側の御家人を味方につけ平氏を長門国に孤立させる。そのせいで義経は屋島の戦いで勝利する。続いて壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。

 義経と頼朝が対立した、義経は藤原泰衡の襲撃により自害する。頼朝の奥州藤原氏を滅ぼした軍に参戦する、これが最後の出征となる。 曽我兄弟の仇討事件をきっかけにして謀反の疑いを受ける。伊豆の修禅寺に幽閉され謀殺されたという。

 平家滅亡までは主力を率いて勝利し貢献大です。義経が有名ですが範頼が平家の主力を押さえていたからこそ、義経の奇襲が成功したともい云えます。


 頼朝は封建制の常で兄弟はいつもライバルです。うまく弟たちを使ったともいえますが、3代で鎌倉幕府が滅びる原因にもなりました。
 


 

 

     範頼ゆかりの地 その1


       
 1. 蒲さくらは、範頼の杖についていた種が成長して、蒲冠者のいわれから名がついた樹齢800年以上の桜です。蒲桜の根本にある墓石は逃れ住んだ範義のものといわれています。

    

 北本市 石戸蒲さくら 天然記念物

       

 東光寺 範頼創建といわれている



2. 範頼の妻、亀御前は範頼の死を知り、荒川に薙刀を持って身を投げて、その薙刀が常勝寺に残されているといいます。(ここはシナ駐屯第1歩兵連隊供養地の寺でもある)

         
 

 常勝寺  
 


 3. 北本市にある高尾阿弥陀堂は亀御前を供養するために建てられたといわれて高尾さくら公園隣にある。 亀御前の石塔と薙刀は常勝寺にここより移されたといいます。

                    
 

 高尾阿弥陀堂 鐘楼



  4.. 石戸神社は1199年に亡くなった範頼の息女・亀御前の供養のために建てられたといわれている。遺跡堀之内館の中に神社はある。堀之内館は源範頼の住居の地と伝えられている。


                

 石戸神社                
  
   

 石戸神社入口

       
 

 神社の奥にある2つの小さな社この後ろに土塁と堀の遺構がある

                    
 

 

 土塁と堀の遺構

  

 

  石戸神社由来

          

  

       交通

   北本駅西口から北里メデイカルセンター行きバスで15分・190円
    蒲桜行も少数あります。



           2015-7-14

 
      源範頼 ゆかりの地 その2  

 
  源範頼の居館跡は北本にある石戸神社を含む堀之内居館跡と吉見にある現在は息障院というお寺に居館跡の2つです。

 吉見にある居館跡を訪ねてみました。住所は吉見町御所374で御所という地名を今でも残しています。 落ち着いた境内のたたずみです。 庭もよく手入れされています。 南東部にある幼稚園を経営されているようで、財政的に安定しているお寺だとうかがわれます。

 近くに安楽寺があり、範頼が平家の追及を逃れるため稚児僧として隠れ住んだ地と言われています。安楽寺も訪ねました。吉見観音とも呼ばれています。息障院から徒歩で二〇分ほどです。

 ここの本堂と三重の塔は範義が建てたといわれています。戦国の争いで近くの東松山城の戦いのときに焼失しました。現在の建物は江戸時代の再建です。ここは義経の鞍馬寺と同じ立位置にあるお寺ということになります。風情のある良い寺院です。
 

   範頼居館跡・息障院

 

 息障院の門


 

 

 息障院の本堂

 

 

  息障院の長屋門

 

 

 北西角の空堀と水堀


  
 

 南側の空堀 塀は息障院のもの


 
 

 南西部から南側空堀を望む

 

 

  安楽寺・吉見観音
 

 安楽寺・吉見観音

 

 

 

 安楽寺 三重の塔


  

      2015-9-22

  

 


      源範頼のお墓 その1

 
 範頼のお墓は伝説により8か所あります。まだまだありそうです。

 有名なものは伊豆の修善寺にあるものです。範頼は、ここに幽閉され梶原景時に包囲されたとありますので、ここで亡くなった可能性は高いと思います。 その遺骸は家臣のものではないかということで、日本中のあちこちにお墓ができるようになりました。

 後世には地元以外には忘れ去られた人物ですが、これらのお墓の数より、 当時では人望もあり評価された人物であったのでしょう。
 源範頼の子孫・吉見氏が能登や広島・安芸郡に領地を構えたところから、逃亡伝説もそこにはあり、お墓もあります。生きていてほしいとの願望・希望が伝説として伝えられたました。

     青字は訪れたところで詳細ペ-ジあり


  1. 埼玉県北本市 東光寺蒲桜下の石塔
    東光寺には範頼の位牌が保管されている

  2. 伊豆市修善寺

  3. 横須賀市金沢区  横浜金沢区 大寧寺の墓

  4. 伊予市上吾川 称名寺・鎌倉神社 鎌倉塚 (その4

  5. 広島市佐伯区三宅 観音神社  (その2)

  6. 鳥取市河原町の霊石山中腹 

  7.. 浜松市南区飯田町 稲荷山龍泉寺 
  
  8.  長門市 三隅中の生島山中  その5

  9.  広島市西区古江上 福蔵寺 (その3)


         2015-11-3  2016-10-23


  源範頼のお墓  その2
 
  源範頼のお墓 その3

  源範頼のお墓 その4

  源範頼  お墓 その5


  ヨットで隠岐へ行く途中に仙崎に立寄りました。 近くの三隅に範頼の供養塔とお墓があるということで訪れました。

 ネットで調べてみるが詳しいことは分かりませんでした。
 



 長門三隅八幡宮の親切な宮司さんに地図を書いてもらい行くことができました。

 なぜ、ここに範頼の供養塔とお墓があるのかというと、伊豆修善寺で梶原景時に襲われて範頼は亡くなった。部下の当麻三郎と小太郎が首を持って逃れてここに供養したと云われています。
 

 三隅八幡宮


 

 範頼供養塔


 お墓は案内板にたどり着けましたが、そこへ行く経路が分からずに見ることはできませんでした。
案内板のすぐ後ろに獣道のような登り口があって途中まで行くが不安になり戻りました。他の道も探りましたが行くことが出来ません。 案内の説明不足でしょうか? 

 範頼はこの地では大事にされていないようですね。 せっかく大河ドラマで登場しているので殺されるシ-ンが過ぎてしまうと、 ますます、ここを訪れる人は少なくなってしまうでしょう。

 隠岐のクル-ズを終えて自宅に帰って大河の録画を見ると、範頼はもはや殺されてしまっていた。範頼の復権は遠いようです。


 


 
 

 範頼お墓 案内板


          2022-8-4
 

 

      源範頼の子孫   



       2026-6-16

 

 


 

全国ヨット泊地  最新の更新  2026-6-13

 

 

      2026年の春巡航 塩釜・宮城から倉敷・岡山を終えて、全国ヨット泊地を更新しました。

 

 

      全国ヨット泊地  最新の更新  2026-6-13

 

     関東以北のヨット停泊事情  更新   2026-6-8/

 

 

 

      2026-6-13

  

 

ドミトリー・ドンスコイ

軍国少年の海と空のものがたり その1         大幡  

     

 

 

  ”海と空”は昭和7年創刊の、文字通り艦船と航空機を主題とするミリタリー誌で、当時、満州事変以降風雲急を告げ、シナ事変を経て第2次大戦に突入する時期に可成りレベルも高く,成年層に支持された雑誌である。

 ドミトリー・ドンスコイはバルチック艦隊に編入された装甲巡洋艦であり、その艦名の由来は、1380年クリコボの戦いで始めてタタール軍を破って、ロシア史上の一大英雄として讃えられるドミトリー・ドンスコイ(モスクワ大公)である。  

さて、本題は”海と空”誌上に紹介された日本海海戦の一挿話であり、所は、バルチック艦隊をむかえ撃とうと、鎮海湾にたむろす一艦の艦内である。 「敵を知り己を知らば百戦あやうからず」の教えがあるが、これから立ち向かうロシア艦隊のそれぞれを認識するために、個々の艦形を示すシルエットをかかげて,之は何艦かと水兵たちに問うていた。

 「アリョール」「ボロジノ」辺りはともかく、「オスラービア」「シーソヴェリスキー」「ドミトリー。ドンスコイ」ともなると、当時の水兵レベルにとっては,舌をかみそうな上、憶えにくい名前である。そこで、語呂の似た日本語に置き換えることにして「ドミトリー・ドンスコイ」を「ゴミ取りゴン助」とした。 その他にそれぞれふさわしいあだ名を付けたことになっているが、資料を紛失した今は、「ゴン助」以外は全く憶がない。話の趣は、戦いが始まりそれぞれのあだ名が、いみじくも、その艦のなりゆきを暗示したことである。

 「ゴン助」は沈没する僚艦の水兵をひろい集め、最後に蔚山沖で、村上艦隊に捕捉され、「ニコライ1世」「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウイン」等と共に、28日午後10時に降伏したと記憶していたが、 この辺りを確認する為一誌をひもとくと、「ドミトリー・ドンスコイ」は28日夜半沈没とある。エッ!集めたゴミ共々かつ乗組員も一諸に、あわれなこと、助けたのは無駄だったのかと大きな疑問が生じた。

 そこで今回、いろいろと関係書を拾い読みすると、次々に「どうしてそうなるの」「そんなことないよ」と思う事柄に出会うことになった。 小生の記憶違いかもしれないが、いくつかとりあげてみよう。正誤の程は読者の判決を期待しながら。

○バルテイック艦隊は20ノットで対馬へ向かって北上しつつ.........改めて記載箇所を探したが所在不明!

○秋山真之が「司令塔の中に入ってください」..........東郷はかぶりをふった......司令塔はそれを囲んでいるぶ厚い装甲14インチとある。(坂の上の雲6巻292頁)14インチといえば36センチである、こんなことをしてはトップヘビーとなって転覆しやすくなる。後世の諸戦艦においても聞いたことがない。

○下瀬火薬を詰めこみ伊集院信管つめこんで細長かった.......旅順艦隊の連中は「鞄・チェダモン」とあだ名をつけ..........目撃すると........薪がクルクルと空中でまわりながら飛んでくる.........6-314頁。まさか、旋条を施された砲弾は射線方向にしか旋回しようがない。 まだいろいろあるが、あら探しは後にして先に進もう。

シルエットで艦名を探索するように、バルチック艦隊における索敵風景に(6-256頁)三隊の巡洋艦隊が左舷にあらわれた.............「鎮遠がいるな」..............「松島・厳島・橋立がいます........」とある。この風影付図-1のとうり。資料と記述がピッタリ合った。  

 

 

  ここで取り上げるのは「鎮遠」である。多少艦艇史をかじった人なら知らないはずはない。「鎮遠}は清国海軍の主力艦であり、かの、黄海海戦(日清戦争)の唱歌にある「まだ沈まずや「定遠}はの兄弟艦である。「定遠」はたしかに沈んだが「鎮遠」は生き残って、今、バルチッキ艦隊の目の前に現われた。しかも、日本艦隊の一隻として。これには訳がある。事のなりゆきは次の通りである。

日清戦争の結果「鎮遠」「高陛」の2隻は日本海軍の手にわたり、旧名のまま就役することになった。世界にはままあることで、くしくも、ロシア艦隊にも「レトヴィザン」があり、スエーデン艦が捕獲されてそのままの名前で、ロシア海軍に就役して。日露開戦の直前新鋭艦にその名が受け継がれ,さらにくしくも、我が国に分捕られて「肥前」となった。この話「海と空」第3巻61頁、すべての資料を廃棄した筈、この話との再会は別の項にゆずる。

 そろそろ本題の「ゴン助」に戻ろう。明治37年5月27日午後1時55分、Z旗があがり、東郷ターンによって火蓋が切られた。しばらく「ゴン助」の記述がない、ようやく現れた(6-386頁)正に名前の通り(ゴミ取り)である。

 戦いが始まって、たちまち、旗艦「スワーロフ」之の一弾により、ロジェスト・ウインスキーは重傷を負い,乗艦も沈没をまぬがれず、駆逐艦「ベドーウイ」に移乗、さらに、この艦も痛手をおい再移乗のはめになった。そこへ、装甲された6200トン17ノットの巡洋艦「ゴン助」と駆逐艦「ベドーウイ」が現れた。どうしたことかロ・ウインスキーは駆逐艦「ベドーウイ」に移ると「ゴン助」はふられてしまった。役立たずめ!それっきり記述が現れない、何をしているんだ。

 ようやく見つかった、しかも、戦いは済んで28日午前10時蔚山沖で、先の4艦が村上艦隊に降伏する現場に居合わせていた。しかも「ゴン助」その名にふさわしくなく、優速を利かして逃亡を企てたのみか、行きがけの駄賃とばかりに打ちまくり、「浪速」「音羽」にそれぞれ1弾を命中させたが、衆寡敵せず多くの命中断を受け、もはやという状況になり夕闇迫り、鬱陵島沖にて、乗員全てが上陸,その后、キングストン弁を開いて水没した。健げなり「ゴン助」とは申し訳ない。 余談だが、半藤一利・日露戦争史第3巻で忘れてしまった諸々のあだ名にめぐりあった。列挙しよう。

 クニャージ・スワロフ     故郷(くに)の老爺座ろう

 アレクサンドル3世      呆(あき)れた三太

 オスラービア          押すとピシャー

 アリヨール           蟻寄る

 ボロジノ             ボロ出ろ

 ドミトリー・ドンスコイ     塵取り権助

 更に、訓練風景の中に「呆(あき)れた三太」に命中。つぎの照準「押すとピシャー」。下士官たちにはこの日本語訳(?)評判がよかったのは事実とある。結構役に立ったのかな。 しめくくりに司馬さんの名誉のためにも一筆加えたい。

 歴史を課題とした物書きは、多くの資料に取り囲まれて、個人的な思い入れの強い日記・戦記の記述に、愛着を感じあえて誇張気味を承知の上で採用したものだろう。「そうに違いない」。 又、半藤氏の参考資料に「海と空」はなかった。

 かなり前になるが、思い立って国会図書館に照会したが全く所蔵されていなかった。でも有るところには有るんだよ。それはどこ、それは今度!

 

  2015-4-29,  2026-6-10再掲



関東以北のヨット停泊事情  更新

    

 

 下田-石巻 利用した停泊地

 

  25歳の若いころに初めてデインギーを手にして三浦海岸に陸置きして以来、 関東のハ-バ-にはヨットを置けない庶民であった。 26歳でクル-ザ-を買い九州や瀬戸内の地方にヨットを置いて楽しんできた。

 海の駅は最近になって整備されている、ヨットの停泊に便利になってきています。今までそこをゲストで利用してきたものには、西日本の海の駅は2000-3000円程度が普通である。 利用した西日本で高いなと思ったのは山口県の萩のもので5000円程度であった。 バッテリ-に充電が必要な時に小生は海の駅やマリ-ナを利用して、あとは漁港の停泊が中心になる。

 

 2025年春巡航での関東以北の停泊地を上図に載せた。個人的な見解を述べます。

1. 海の駅

 下田  5000円程度、水と電気あり、 温泉入浴と買物便利、 諸風を防ぐ、 スタッフは親切

 伊東  10000円程度、 電気なし、 温泉入浴と買物便利

 いわきサンマリ-ナ  10000円程度、 電気と水なし、 給油可能、 スタッフは親切

 荒浜フィシャリ-ナ  2500円程度、入港日も加算される、 電気と水あり。近くに温泉、給油はスタンド

 関東以北の係留地には先の震災時に全滅して再建したところも多い。未だに復興増税を支払っている国民がいる。マリ-ナが復興予算で再建されたどうかの個々のことは定かでない。地元の人にはリ-ズナブルの係留費だという。 なぜかゲストに高額な費用設定をしているのは納得がいかない。 ゲストバ-スに電気も水の設備がある、しかしそれを使わせない。気持ちが無いと云える、スタッフの人はそれが理不尽であると承知しているのであろう。他所よりも親切な対応であるのが救いだ。

 

2. 漁港・商業港

 船形・千葉  2隻程度可能、

 千倉・千葉  2-3隻程度可能

 大原・千葉  スタンドで給油、かつお漁の盛んな時は満杯だと云う

 銚子・千葉  1-2隻、 漁協に連絡、 スタンドで給油、 ス-パ-で買物、 漁業が盛況のようで空が少ない。

 銚子マリ-ナ  コンビニ以外買い物不便、

 大洗マリ-ナ  買い物便利、 温泉あり

 茨城港  停泊禁止

 久慈・茨城   漁港の外防波堤に可能

 大津  南風注意

 久之浜  南風注意

 松川浦・福島   湾奥に1-2隻可能

 塩釜  湾奥の観光船のりば近く、 2隻程度、 買い物便利

 石巻・宮城   全面的に停泊禁止、 罰金5万円、

 海の駅のコメントにも書いたが、港や漁港は復興予算で造られたはずだ、邪魔せずに空いているなら係留を認めてくれるところは全国に多いのが現状です。

 茨城港は港は空いている岸壁でもヨットは禁止である。石巻漁港は廃船・放置船の横に着けるけれど禁止通告を受ける、漁港には空が目立つのであるけれど、ここまで厳しいところは全国でも珍しい。 千葉県の漁港は心配したほどのことは無く、着けることが出来た。

 

 

 

 荒浜フィシャリ-ナ、 2026年の3月まで短期係留する。 年32万である。



 

 銚子、  10日ほどお世話になった



 

 石巻  廃船放置艇の2隻の間に係留。 漁協の通報で2度市の職員が退去の通知に来た。



 

 いわきサンマリ-ナ



  伊東マリンタウンゲストバ-ス、   赤潮があり、海はきれいではない、 すぐ温泉がある



      2025-7-25  2026-5-31 改定

 

 

徳島  沖洲マリンタ-ミナル  ヨット泊地

   

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 沖洲マリンタ-ミナル  赤丸はヨット泊r地、  青丸は候補地

 

 

 県庁前には海の駅があるので2-3泊の時はそちらを利用。 空きの無い時には旧マリンタ-ミナルが利用できる。ここは昔の連絡船の跡地である。 2ヶ所に岸壁への鉄製ハシゴが設置されているので、その場所が良いのでしょう。

 

 2度目の停泊の際には南寄りの強風で港内でも白波が建つほどで大きな俵フェンダー2つで岸壁への激しいぶつかりを防いだけれど、予想されるときにはサイドアンカーを打っておくのが良いと思われる。

 近くにバス停があるので2時間おき程度にはそれに乗って徳島駅にいくことができる。

 

 

 東九フェリーの横の赤丸停泊した


 

     2026-6-6