瀬戸水軍の終焉

  

  

           祥伝社文庫

 

 海賊はカリブの海賊のように金銀財宝の積荷を奪うようなイメージがある。 しかし、日本は植民地を持っていたわけではないので、地方の荘園のお米を京にいた荘園主に運んでいた積荷がメインであった。日本の海賊は襲ってもコスパは悪く、次第位に帆別銭・警護水先料を得るようになる。

 戦国への時代が進み、厳島の戦い、第1・2回の木津川の戦い、文禄・慶長の役、秀吉の海賊停止令、関ケ原の戦いを経て日本の海賊は終焉を迎えた。藩の水軍として生き延びることになった。また、海から離れたところに領地・住まいをもつことになった。

 

村上海賊、 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。来島や因島村上は小早川に従う。能島は大友について他と対立するが、能島も毛利に加わる。 木津川の2回の海戦で勝利し敗北をする。関ケ原で毛利は敗れて,船手衆として残る。来島村上家・久留島家だけが大名として維新まで残る。

   村上水軍 まとめ

忽那海賊、  南北朝時代に忽那氏は後の真田氏のように両天秤を懸ける。兄は北朝、弟は南朝である。征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐(かね)良(なが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。南北の抗争の週末とともに次第に消えていく。

 

九鬼海賊  九鬼嘉隆は長島の戦いに参戦し鳥羽に拠を移す。木津川の海戦で鉄甲船で勝利する。信長・秀吉に信頼された。関ケ原では自分は西軍に息子は東軍に属し敗北して自害した。九鬼氏は摂津の三田と丹波の綾部の2藩で5万5千石で維新まで続いた。

  https://www.youtube.com/watch?v=g31JXN4Mo3o

塩飽海賊  毛利方に与していたが石山本願寺合戦で信長に味方する。信長、秀吉、家康から朱印状を得て御用船方となる。人名政のもとで自治権を持つ。幕末には咸臨丸の主な水夫として活躍する。船大工としての伝統ものこる。



河野海賊  源平合戦屋島壇ノ浦の合戦で源氏方として活躍。元寇の役で九州に出陣。南北朝期、北朝に属した河野水軍は、南朝方についた新興勢力・三島村上水軍や忽那(くつな)衆と対峙した。通常倭寇は北九州の対馬壱岐・松浦を中心とした漁民・浮浪民などの海賊集団と考えられていますが、瀬戸内海の水軍もその一翼を担っていた。 秀吉の四国征伐に屈服。小早川氏に庇護をうける。

 

   2024-9-15

 

 

 

 

明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信     大幡高通さん

  


 歴史とは、人類社会の過去における変遷興亡のありさま、記録であり、自然科学の反復する一般的法則に対し、歴史は反復できず、一回的、個性的なものと広辞苑にある。
歴史は過去に起こった諸々の事柄を集約し、時間をかけて定説が生まれ一つのものとして確立されるべきだが、資料の読み方・評価判定の仕方に依って諸説に分かれ、さらには資料の扱い方によっては、とんでもない歴史が唱えられることがある。只時節の試練に耐えられるには、なによりも資料の読み込みと、その判断に関わる補完資料の存在に掛かっている。

 「フルベッキ群像写真」事件は混乱した歴史の好例といえよう。
 昭和49年(1974)肖像画家の島田隆資が日本歴史学界誌「日本歴史」に、維新史上写真が存在しないといはれる西郷隆盛のほか坂本竜馬中岡慎太郎高杉晋作・大久保利光伊藤博文勝海舟・等が一堂に会している写真があると説なえた。専門家に全く無視されたが、学会誌に載ったということで、次々に珍奇性を競って色々なビジネスが生まれ、フルベッキそのものも怪しげな正体不明の人物とされるまでになった。




 そもそもこの「群像写真」、明治28年(1895)博文館の雑誌「太陽」7月号に初めて登場したが、誰が写っているかいるかに言及することなく、ただ佐賀の学生たちと説明したのみである。それから80年、島田がとりあげるまでひたすら眠り続けたが、これを機にして地元佐賀で動きがあったと思はれる。
 平成25年(2013)この写真の補完資料が出てきた。佐賀藩士で致遠館教師から明治政府に出仕した、中島永元の関連資料のなかに、同時期に撮られたガラス原版が見つかり、これに佐賀藩士数名が写り、之が「群像写真」と同じ上野彦馬の手になるもので、多くの人が比定され、勝海舟とされたのが医師の相良知安、中岡慎太郎が後の貴族院議員中島永元、西郷伊藤とされた人物は不明だが、岩倉具視の息子次男具定・三男具経などと判明するにつれ、島田の「志士群像」はもろくも潰え去り、フルベッキそのものが見直されるようになった。

 ここで改めてフルベッキの略歴を、平凡社刊「百科辞典」(1985初版)で見てみよう。
 フルベッキ Verbec (1830~98)
 「アメリカのオランダ改革派教会宣教師。英語読みではバーベック、オランダ生まれ、移住先のアメリカでオーバン神学校に学ぶが、病に倒れたのを契機に献身を決意し、新婚早々の1859年(安政6年)来日して、長崎で日本語を習得、禁制下密かに布教して、村田若狭守に最初の洗礼を授けた。また長崎の洋学所その後身の済美舘、さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学・政治・科学・兵事などを教え、門下から大隈重信伊藤博信、横井小楠らの人材を輩出した。
 69年(明治2年)招かれて上京、新政府の顧問として重んじられ、開成学校(のちの校)教頭を務めた。また欧米への使節団派遣を建言し、教育、法律、行政などの諸制度に関して献策し、日本の近代化に大いに貢献した。
 のちに伝道に専念し、東京一致新学校の講師となり、86年ヘボンらと明治学院を設立してその教授を務めた。旧約聖書の邦訳にも協力。東京で没した」とある。


(写真)   フルベッキ夫妻

 この文面だけでもトテツもない貢献と言える、「偶像写真」に関わる人物比定騒動(1974)の9年後の記述である。そうして、比定確立(2013)の28年前の確かな評定である。世の中は一片の偽報によって揺れ動く頼りない存在なのか。
 辞典のなかでキーマンと言える大隈重信(1838~1922)の評伝からフルベッキを探ってみよう。同じ辞典には「長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英語を学び、世界的視野を広げた」とある。重信は年少の頃から佐賀藩の中で注目される存在で、藩の公用で長崎に出かけ、そこでフルベッキと出会い、学ぶなら英語を、そして藩の多数の若者にと、藩の老公関爽に掛け合い、重臣たちも重信に上方で騒動を起こされるより、長崎に縛り付けようと賛成して、三十数名のため慶応元年(1865)長崎にフルベッキを師とする英語塾「致遠館」を建てた、維新の3年前である。
 さらに、辞典のなかの門下生に横井小楠(1825~83)があげらっれているが、洋楽所の始まる1863年小楠は熊本藩による士籍剥奪の処分を受け蟄居状態であり、門下生とは少々不都合である。
 フルベッキは1859年11月日本着、その後2年の万延元年まで、禁教中公の布教が困難のなかに、年頃16~7の二人の士族が、英語の教えを乞いに来たのをきっかけにして、英語塾に活路を見出した。文久3年(1863)長崎奉行管轄の洋学所(後に「済美館」となる)の教授に招かれた。致遠館に先立つこと2年前である、重信との出会いはこの頃であろう、そしてキリスト教史、憲法等を伝授したのであろう。一方致遠館とは特定できないが、伊藤博文井上馨、後藤象次郎、小松帯刀等もフルベッキの下で学んだと言はれる。
 後にタカジャスターゼで知られる高峰譲吉も12歳の頃、重信の薫陶を受けたといはれ、重信は致遠館の助教も兼ねていたのであろう。 
 重信は維新での表舞台での活躍は無いが、既に勤皇方の財政を取り仕切っており、彰義隊退治に際して大村益次郎の要請に、資金25万両・佐賀藩兵士1000人に加えてアームストロング砲2門と応えている。


(写真)  新政府出仕の若き大隈重信

   
 明治政府設立間もない慶応4年4月5日大阪東本願寺別院で、浦上事件(キリスト教徒の大迫害)に関する、英国公使ハリー・パークスとの談判に於いて、外国官副知事の重信は「博愛と言うキリスト教にも血濡られた歴史が有るでは無いか」さらに「内政干渉である」と喝破した、これにはフルベッキによる教育ガ役だったのである。重信は若いのに頼もしいと、大久保や木戸の信任を得た反面、三条実美等はパークスの怒りを買ったのではないかと心配したが、パークス自身は理屈の通った主張に応えて、むしろ所信を主張する態度に深く感銘して、後々までの信頼関係が築かれた。因みに明治への元号改正は同年9月であり、この信頼関係が外債処理に大いに役立つことになる。



(写真) イギリス公使パークス

 明治2年、フルベッキは上京政府顧問となったが、済美舘・致遠舘は5年程の出来事であるが、講義内容の多彩さに加えてその授業方法は、当時としては画期的なものであで、生徒が円陣を作り教師を囲んで自由に質問し、一団となって議論を闘わす方式で、今のディベートでありしかも英語で行われた。歴史を学ぶだけでなくこの討論方式が、パークスとの交渉に大いに役立ったのであろう。


 明治近代日本の瞭明期に医師としてのシーボルトに加えて、お雇い外国人、ローマ字のヘボン・理科のグリフィス等それぞれの専門分野で貢献したが、フルベッキは教育・法律・憲法更には工学と広範囲にわたって業績を残した。更に維新前1861年頃から明治5年(1872)にかけて、日本からアメリカに留学した約500名の半数以上が、フルベッキによりアメリ東海岸ニュージャージー州立のラトガース大学に斡旋され、その第一陣は慶応2年(1866)で、この中に横井小楠の甥でフルベッキのもとで英語を学んだ横井佐平太・大平の兄弟が含まれていた、師事とまでは行かないが小楠もかなりの知遇があったと思われる。
 更に、ラトガースに入学した一員に、勝海舟の息子小鹿がいる、慶応3年とあるから二期生である。彼は後にアナポリス海軍兵学校に転じている、海舟の海えの思いを継いだと言える。
 フルベッキの上京は大隈の推薦によるもので、そこで大学南校の教頭となり、新政府の外交・教育・法律等の顧問を兼務し、アメリカ等列強との条約改正の進め方の要旨を大隈に提出、これに応じた大隈、列国一堂に会しての交渉の非を悟り、列強中わが国に最も親近感を抱いているアメリカとの単独交渉の利をあげて、自ら交渉役として渡米することを建議し、三条実美の許可を得ていたが、新政府の一部特に薩長を中心にして、反対の機運が起こり大隈の渡米は実現しなかった。
 明治4年岩倉使節団1871年6月~73年00月)が派遣されることになった。これは新政府が外交関係を結んだ諸国に、明治天皇の親書を携えての表敬訪問と、近代化の実績視察を兼ねてのことであるが、これもフルベッキの強い献策によるものであり、又留守を任せるにフルベッキの愛弟子大隅重信あってのことである。維新の大業を遂げた志士の面々も、兵火の混乱はものともしなかったが、近代化というと勝手違いで、憲法・藩札処理・新貨幣等殆ど重信まかせであった。更に、「群像写真」に岩倉具視の二男具定・三男具経が居る、フルベッキと具視の間に並々ならない関係が有ったと思われ、先の献策の成立に有効に働いたことであろう。


 明治5年の条約改正にはその1年前に、それを申し入れることになっており、改正を有利に進めるには、わが国がいかに近代化したかの実績が必要であり、その最たる物が廃藩置県に伴う中央集権と財政の確立である、渋る藩主たちを貴族として東京に集め、各種藩札全てを新貨幣「円」で償却、通貨の統一を成し遂げた。

 明治5年、その他の施策については以下に一覧する。
   2月28日 兵部省を廃して陸軍・海軍二省を置く
   3月14日 神祈省を廃して教部省を置く
   8月 3日 学制を頒布(義務教育制)
   9月12日 新橋-横浜間の鉄道開業式
  10月 2日 人身売買禁止
  11月 9日 太陽暦採用を布告(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
  11月15日 国立銀行条例公布(第一銀行設立)
  11月28日 徴兵令公布
 
 お雇い外国人の一人理化学教師グリフィスによる、評伝「日本のフルベッキ」の中で、「フルベッキが居なければ日本の近代化はあり得ない」とまで断言して、正に留守中の事を言い当てている。このグリフィスが日本に渡ろうとした影に、フルベッキの弟子福井藩士日下部太郎が絡んでいる。彼は小楠の息子達とともにラトガース大に学び、猛勉強のあまり卒業直前に病死したが、「数学の天才」と称され卒業とみなされた。この存在にグリフィスは触発され、日本に渡ろうとしたといはれる。因果は廻ると言はれるが、好結果は更なる慶事を生み、近代化を推し進めたといえる。さらに尾形裕康によれば「大隈の影にフルベッキあり、フルベッキの影に大隈あり」である。


 昭和47年(1972)「群像写真」から始まった騒動、平成25年(2014)までの凡そ40年、数点のガラス原版が埋もれていた諸々の歴史上の事柄を掘り起こしたが、歴史は事実の断片により大筋が決まり、更なる資料の添加が花として添えられものであるが、学会等表の研究の影には、地元史に思いを込める名も無い好事家の活躍が有る筈である。


 「福井新報」明治29年(1896)2月号にこんな記事がある。フルベッキが送り出した薩摩藩の青年4名の一人(後の大山巌)が出発にあたってフルベッキに助言を求めたが、フルベッキは「とにかく、どんな面白い事や、可笑しい事や、慰む事があっても、日本魂を失ってはいけません」と諭したと言う。フルベッキは日本人に西洋的な価値観を押し付けず、むしろ日本的な道徳観を尊重したと言う、まことに心豊かな人である。
 これ程の業績の影には未だ埋もれたままの、多くの物語があるであろう。実のところ、小生数年前の「群像写真」までフルベッキの存在を全く知らなかった、冒頭の辞典による略歴1985年に確立し30年前のことであり、お恥ずかしいことこの上ないが、シーボルトに娘イネがいるように、例の写真に次女エマが写っており、二つの塾には春秋に豊んだ数百人の若者が群れ集(つど)っていて、時あたかも維新である、歴史に花を添える物語があってもおかしくない、小難しい歴史書には不可能なことで、文学の力に頼るしかない。若しも「坂の上の雲」の司馬遼太郎の目にとまっていたらと、妄想の雲が湧き上がるが所詮かなわぬ夢、いずれかの文筆家の目にと思う。


 小生がこの項に思い立ったのは、新潮45(2016年9月号)井上篤夫投稿の「フルベッキ先生」正伝により、氏は岐阜県に生まれ佐賀との地縁はなさそうで、早稲田在学中に執筆活動に入ったとあり、主な著訳書に「追憶のマリリン・モンロー」「志高く孫正義正伝」などがあり、少々筋違いかもしれないが、ここ(フルベッキ)に今一つの「ものがたり」を添えてと願うや切である。
 


    2017-11-19

 大幡さん


  友人であり盟友であった大旗高通さんが93歳で一昨日の4月3日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

     2022年4月5日


 

松江豊寿  坂東俘虜収容所

 

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1872-1956
  
 




  第1次大戦でドイツの俘虜は4715名であった。そのうちの1000名余を徳島鳴門市にあった坂東俘虜収容所に収容した。その2年10か月を会津出の松江豊寿大佐が所長を務めた。


 映画バルトの楽園を見ましたが、ご覧になった方も多いでしょう。 ベートベンの第9が日本のここで初演されました。 第2次大戦で各国の俘虜の悪しき待遇が一般化していますので、信じられないような人道的な待遇がこの収容所で行われました。

 このような俘虜を文明国の人間として、日本人と同じく、国のために戦った人であるとして待遇したのは坂東が著しいものでした。 最大の収容者がいたのは久留米で、所長の真崎甚三郎中佐(のちに皇道派陸軍大将)は些細なことで、俘虜を殴りつけた。 所長の方針で違いがありました。 

 戦前の軍隊の中でも、このノブレス・オブリージュでとりあげる旧軍の軍人たちは個人の責任と判断により、後世での大きな評価を受ける行動をしました。 軍隊ゆえに窮屈で絶対だと思いがちですが、軍隊ゆえに上官の命令は貫徹される側面があります。

 自衛隊のいじめが問題になりますが、それを問題にするのなら指揮官の責任をウヤムヤニしたのでは現代の世でも解決できません。直接の当事者の下士官を罰しても一時の解決にしかならないでしょう。


  1872 明治5  斗南(会津藩士の嫡男として誕生
  1877 明治10 父・松江久平警部補心得にて西南戦争抜刀隊に入隊
  1889 明治22 陸軍幼年学校入学 16歳
  1892 明治25 陸軍士官学校入学
  1895 明治28 日清戦争山東省に上陸
  1902 明治35 歩兵大尉
  1904 明治37 日露戦争で仁川作戦 兵站副官、韓国駐箚軍副官
  1907 明治40 歩兵少佐
  1914 大正3  第1次大戦、歩兵中佐 徳島俘虜収容所所長
  1917 大正6 坂東俘虜収容所長、歩兵大佐
  1919 大正8 ドイツ敗戦
  1920 大正9 収容終了
  1922 大正11 陸軍少将、予備役、若松市
  1925 大正14 若松市長辞任
 

   2023年と2024年に坂東捕虜収容所を訪れることができました。 お遍路に訪れる西洋人は多い、一番の霊山寺近くにここがあるのですが、地元も政府も外国人に対してここの衆知が足りないようです、此処を訪れる人が少ない。 世界歴史に稀な誇れる場所であるのに残念です。

 

   アヴェマリアのヴァイオリン 香川宣子
   https://hayame.net/custom29.html#spb-bookmark-1172
 

     2015-12-1、 2024-9-11

 

 

高市早苗、   自民党総裁選挙   2021&2024

  

  今日2024年の自民党総裁選の候補者が告知されました。 推しの青山繫晴さんは15人しか推薦者が集まらずに断念しました。
  前回の青山さんは「反回想」の本にあるように、安倍さんに云われて自分の立候補を止めて高市さんの推薦者になっています。高市さん以外はろくなもんではないので、彼女に頑張っていただきたい。

 青山さんは消費税の減税の実現で、財務省と対峙すると明言されていたので、逆鱗に触れ財務省とその配下の大手マスコミにパージされ推薦者の引きはがしに会いこの結果となりました。 財務真理教「はげに怖ろしや」といったところです。 

 ここ30年の停滞を打破するテーマが最も大事な点であると、小生は思っていますが、はたしてその討論はあるのでしょうか? 高石さんにも減税やこの議論を述べていただきたいものです。

        2024-9-12



 20歳で投票権を得てから、後期高齢者目前になるまで一度も自民党に投票したことはありません。 最近は、誰も支持できなくて白票を入れたこともあります。 小生は総裁選には投票できないけれど、是非とも入れたい人が現れた。 それが高石早苗氏である。 彼女へ投票できるなら、党友にさえなりたい位である。

 彼女の本を読む。 政策の具体的なことが書かれているので小生には分からないことが多い。 けれど、他の候補が抽象性的で具体性のない口当たりの良い言葉に比べれば、彼女が取り上げる対象やその具体性など、小生にはそれらをやってほしいものばかりである。 また。実際にやってきたこともこの本で述べている。

 最近の日本で最も喫緊の対策は何であろうか? これに答えて政策に挙げてくれる政党は無い。 それは夫婦の姓の問題、LGBTの問題、同性婚の問題、環境問題、原発問題では無い。 ワクチンで終息の問題が見えてきたコロナ問題でも、もはや無いでしょう。

 それは「チャイナリスク」である。 最近には、中国の不動産会社に取り付け騒ぎがおきている。すぐにも兆円を大きく超える債務で破綻しそうである。リーマンショックを数十倍にしたものが起きるのではと懸念されています。 それは経済的には大問題で被害の大きさも想定されますが、それよりも、もっと大きいことは台湾問題でしょう。 台湾で負けるようなら沖縄・九州と人命・国土の問題となります。このことを述べているのは高市さんのみ。 国防予算の増額、中距離ミサイルの配備を取り上げています。やっと大事な問題を取り上げてくれる政治家の出現です。


 テレビに向かってそうじゃないだろう、GDPの2%に防衛予算を上げろ、中距離ミサイルを持ち配備しろ、と画面にほざいていたのが、そのことを現実に述べてくれる人が現れました。NATOのような核を持てとまでは言ってはくれませんけれど。 中国に対して冒険をさせないための抑止力を持つのは、今最も必要とされているものと小生は考えています。

 先の米大統領選挙で見られたトランプに対する主要メデイアやSNSの偏向報道が、 アレっ! 日本でも同じではないかと思われることがある。 記者クラブでの候補者の会見をテレビでその後半部分を見ました。 河野・岸田さんばかりに回答を求めて、他の女性には発言を求めない、それが20分ほど続いたので、おかしいと見るに見かねてテレビを切ってしまった。 「高石外し」が始まっているのか? 支持率の発表も意図的な数字を出しているのではないか?と疑っています。 これからも十分にメデイアを監視していく必要がありそうです。


 小生は若いころに船乗りをしていて、イライラ戦争の時にペルシャ湾を航行しました。 その時には日本船が攻撃をされて死者が出ています。 乗船している船体に日の丸を描かされて、それが唯一の安全護符でした。日本国民の人命と財産を守るのは建前だけで、絵空事の時代であった。 最近は、アフガニスタンで1人しか帰国させられなかったけれど、3機の自衛隊輸送機が現地に向かったのとは大きな違いであった。今では当時の状況が起きたのなら自衛艦が船団を組んで商船を守ってくれることが期待できるのでしょうか。 高市さんならできそうな気がします。

 これからの進捗を大いに見ていこうと思う。


      2021-9-20

 

 

忽那水軍史 「あしら」を海賊と呼ぶな!  忽那裕三



    アルハオス出販

 

中島・忽那島に天候待ちでヨットを予定外に停泊させるまで、この地のことは何も知らなかった。 ここは忽那(くつな)海賊の本拠地であったのだ。 ニワカの知識で海賊城を訪れる。クル-ズを終えて時間ができたので家に帰ってから本書を購入した。

 瀬戸内の海賊といえば村上海賊や塩飽海賊のことは興味を持ち。ヨットでそこを訪ねている。

   

  この書によると、忽那諸島に謀反の濡れ衣を着せられ、都より逃れて来た一族がその島々を開発し、また、どのような経過をたどり伊予の本土を開発した一族であったかを解き明かしている。

 平安末期・偶然としか言いようが無い厚遇を得て、朝廷の高官より伊予の年貢米の海運を任され、その船舶を防備する水軍を組織する。そして、九州の長講堂領(上皇領)の年貢米の輸送も手掛け、一族は莫大の資を手にした。 積荷の40%位のお金を得たという。 その資をもって、南朝の旗印を掲げ南朝の水軍として瀬戸内海を制覇し、征西将軍として九州に赴く後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王を中島に三年間お護りし、鹿児島から熊本そして大宰府に征西府を成立するを援助した。 荒廃した南朝政府の所領(国衙領)を忽那一族は恩賞として受領。伊予の北吉田に忽那山城を構え、海運で得た多大な資本投じ、荒廃した伊予の各所(北吉田・別府・野間郡大西・風早郡北条・和気郡久米郡高井・伊予郡松前鶴吉・同北河原・他)を開墾開発し、南北朝期より室町期の開発地は未だ忽那を名乗る集落として存在する。

 

 忽那山城 周辺図 

 

  塩入荒野の開発海浜の土木開発とは

 忽那一族は3万石を超える荒野を干拓し農耕地に開発した。その方法は3-4mに及ぶ瀬戸内の干満の差を利用して、遠浅海岸で堤防を築きその内水面の海水を潮差で排出して耕地を造成した。その技術と動員できる人を彼らは持っていた。

 瀬戸内の一水軍が、平安時代末期の朝廷貴族から、武士を中心とした鎌倉・南北朝室町時代の、武家政権の中枢とも関わりを持ち続け、室町幕府日明貿易にも関っている。著者は現地に足を運び神社・仏閣等に、五〜六百年前の残り少ない史料(木簡・位牌等)を見出し、伊予の中世史を新たな側面から論じている。

 忽那氏の勢力下にあった島々は「忽那七島」と称され、愛媛県に属する忽那島(中島)、睦月島、野忽那島二神島怒和島津和地島に加えて、山口県岩国市に属する柱島を含める

  忽那七島

 

  忽那七島は中世の航路を支配する絶好の位置にある。

 

  中世・近世の航路図

 

   2024-9-11

 

 

反回想  青山繫晴 、  報道の危機

    わたしの接したもうひとりの安倍総理

          

      扶桑社刊

 

 青山繫晴さんの「ないないずくし」のことをマスコミが無視して報じないので知らない皆様が多いことでしょう。

   そのゼロとは

 1.個人・団体献金 2.支援団体・後援会 3.派閥 4.地元・後援会長 5.私設秘書 6.パーテイ 

 まあ、今までの議員が持っているものすべてです。 彼は議員の存在すら無いものとされています。

 今回の自民党の総裁選挙では昨年11月10日から立候補を表明されている。先に立候補表明の記者会見を行ったがその日のNHKには相変わらず告知報道がされないままです。 推薦候補者の引きはがしがすさまじく告知日までに20人集まるか不明の状態である。

 消費税の減税や財政法の改正を表明されているので、財務省や既得権者より強力な妨害をされて、それらの議論が庶民に分からないような工作がされている。 日本の民主主義の危機的状況である。 ここに載せても何も影響がないけれど述べざる負えない。

 

  近著の「反回想」を読んだ。 総裁選があるので、3版にて、差しさわりのあるところを修正されたと云うことであった。入手したものは初版であったが、小生には何か問題がある箇所があるには思えない。

 

 「ぼくらの国会」などをよく見ているせいか、今回の内容で90%くらいは聞き覚えのあるものであった。 安倍さんの最初の辞任の理由が病気ではないことを読むまで知らなかった。

 旧・民主党の有力議員の事務所で実際に耳にしたことは、「安倍さんは2流大学出のアホな2世議員」の評であった。しかし、彼は速読の読書家で知的に欠けるとはとんでもない。 今回の総裁選ではそのような人がいないわけでは無い....   また、モリカケのカケは全くの冤罪であったことも知った。

 

 トランプが再選されるであろうから、彼に信頼されていた安倍さんが居ないのは、これからの日本にとって本当に大きな損失だろう。 望むことは出来ないけれど、今度の総裁に安倍さんに三選を願いたい位だ。 本当に暗殺が起こるということは我が国の歴史の恥ずべくものだと皆が共通の認識としたい。

 

 動画で前世の記憶を持つ子供の番組が結構好きで小生はよく見ることがある、暗殺された日に青山さんのところに安倍さんがお別れに来たことも最後に書かれている、本当のことだと思います。

 

 最後に今回の選挙で4000円の会費を納め自民党員になれば日本の総理選びの選挙に参加できる。しかし国籍のチェックが無いので、中国や外国による介入が充分に起こりえる、次回の選挙よりしっかり確認してほしい。

 

 

  総裁選出馬意向の青山繁晴氏が会見 消費減税を主張「財務省と対峙しても実現」

    https://www.youtube.com/watch?v=oOtH8ym_Xe0&t=9s

  青山繫晴  アフガンの悲劇なぜ 

   https://hayame.net/custom7.html#spb-bookmark-755

  青山繁晴議員に聞く! 自民党総裁

 https://www.youtube.com/watch?v=g4OdfddeA3o

 

        2024-9-10