横井小楠  幕末に国家をデザインした男

  

 

 1809-1869

 

 田口佳史  到知出販

 

 上を読み終えたけれども、老人故の集中力が続かないせいか頭に入ってこない。 これから他書を何冊か読まなければ理解できないのでしょう。

 熊本藩に生まれて、福井藩の松平春嶽が幕府政治総裁になった時の指南役となる。「五か条の御誓文」を起草した由利公正(ゆりきみまさ)、「教育勅語」の起草に尽力した元田永孚(もとだながざね)、「大日本帝国憲法」の草案をつくった井上毅(いのうえこわし)吉田松陰、勝海舟。坂本龍馬と会談をし影響を与えた。

 小楠は「国是三論」を献策し、以下のように福井藩の藩政改革を実行。

・倹約で得た資金を貿易や商品開発に投資し、利益を確保
・殖産興業としての養蚕を奨励。絹、生糸の増産に取り組む
・商人を集めて物産商会所を作り、生糸、茶、麻などを藩が長崎で販売して利益を農民に還元

  「国是七条」にて幕府の政策を変えた

① 将軍は上洛して、これまでの無礼を帝にわびる
② 大名の参勤交代などの無駄を廃し、その費用を各藩の国力増強にあてる
③ 大名の妻を国に返す
④ 外様・譜代の区別なく、有能な人材を登用する
⑤ 自由な言論の道を開いて、天下と「公共の政」を行う
⑥ 海軍力の増強
⑦ 自由貿易をやめて官貿易とする 

 岩倉具視に高く評価され、明治新政府の参与となった。 日本の悪弊であるが、最後は事実無根の理由で京都で暗殺された。明治政府が発足したばかりの明治2年1月のことであった。



         2026-7-9

 

   

海の武士道・騎士道 まとめ

 

工藤俊作 提督

  

 もうウイキや検索でも調べられない。小生がまだ、若い船員であった昭和の時代に、積荷の自動車が多数、時化て損壊した。敗戦から20年以上建った平和の時期であったのに、事故の責任をとりその船長は切腹した事件があった。船が沈没したわけではない。その船長は亡くなられた。当事はまだ戦前の船長は船と共に命をささげた記憶が残っていたせいであろう。


 その当事の日本では、船員法第12条で船長の最後離船が、同法で罰則規定も定められており法的な義務として定着していた。1969年から1970年にかけて「ぼりばあ丸」事故、「波島丸」事故、「かりふぉるにあ丸」事故と立て続けに3件の遭難事故が発生する中で、それぞれの船の船長が離船を拒否して殉職する例が見られた。

 他に、1980年、LNG船が関門海峡の投錨地で座礁した際にアメリカ人船長がピストル自殺した例、1997年、福井県沖でナホトカ号重油流出事故が発生した際にロシア人船長が救出を拒否して後日、遺体となって発見された外国人の例も起きた。

 

  海の武士道・騎士道を以下にまとめてみました

 

  1. 高橋伊望 ・ 竹内一 ・ 工藤俊作の責務 

  2. 工藤俊作のお墓を訪ねて

  3. 自衛隊のいじめと工藤俊作

  4. 海の騎士道 米国海軍

  5. 東慶丸による難民救出

  6. 陽明丸の4人の男たち

 

         2029-7-5

大友宗麟・義鎮よししげ と 薩摩、  アテネとスパルタ

 
 

 

大友宗麟 1530-1587

 

 最初に述べなければならない。表題のようにすすめようとして、調べてみたが田舎老人の思い付きに過ぎないと分かる。未だにアテネの民主制が世界に根ずかないように、ギリシャ文明・風土で起きたアテネ・スパルタの文化と大陸の端の孤島に起きた戦国時代の大名を並べようとは。わが身に過ぎたものであった。

 

 スパルタで少年を親から離して兵営のようにする教育と薩摩の郷中教育とは違いがあるけれど、似てはいる、 アテネの交易を中心として栄えた文化はアジア全域に交易をしていた大友氏と重なるところがある。 スパルタとアテネは政体が違うが民会の決定が左右する基礎の上にできたものである。残念ながら小生仁は突き詰めることができなかった。

 

   ギリシャ人の物語  塩野七生
   https://ameblo.jp/yacht-hayame/entry-12818181357.html

 

 さて、大友宗麟であるが、戦国時代のよくある跡目相続から出発する。 信長や信玄のように弟や親と争い家督を得た。最大の版図は北九州6か国になり、100万石の大大名です。 さらに対立していた周防の国の大内氏に弟を大内善長を送り影響を強めた。 九州における最大版図を築き上げた。また、熱心なキリスト教信者であるキリシタン大名としても広く知られ、海外貿易を通じて西欧文化を積極的に導入し、領内の文化発展に大きく寄与した。1570年代までに東アジア諸国に加えてカンボジアやポルトガルの国王とまでも単独での外交関係を保持する。それゆえに三浦按針・ウイリアム・アダムスが豊後を目指したのがよくわかる。

 

 1551年に豊後を訪れたフランシスコ・ザビエルと会見して以来、キリスト教に対して深い理解を示し、宣教師を保護して領内での布教を認めた。1578年には自らも洗礼を受け、ドン・フランシスコという洗礼名を名乗った。彼は領内に日本初の西洋式病院や育児院を設立したほか、南蛮貿易を奨励して医学、音楽、料理などの西洋文化を積極的に取り入れ、豊後を国際色豊かな土地へと変貌させた。大友宗麟は、天正遣欧少年使節の派遣にも関与し、欧州にその名が知られていた。

 

 薩摩氏の台頭で勢力を減じて秀吉の協力を仰ぐ、豊後1か国になるが、この大友 義統(おおとも よしむね)は1592年の朝鮮出兵に際して、義統は消極的出兵をした大名の一人であった。秀吉は、そうした義統を改易した、

 

 

        臼杵城・丹生島城  島津軍を追い返したフランキ砲

 

 

         2026-6-30

 

 

 

 

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10年のヨット総括  ① 課題と目標

    

 2016年の春に2代目速魚を購入してから10年になります。沖縄以外の全国をこれまで巡ることができました。 残生も限られてきたことから、この10年をまとめてみました。

 

 2026年の速魚2

 

 その都度の思い付きで関心に関心を持ったことについてその巡航計画を立ててきた。その項目は後に書くことして、これまでの航海は下記になります。

 

 

   2016年より2026年まで

 

 2016年3月 香川県丸亀にあった中古のヤマハ31フェスタを購入。坂出のマリ-ナに係留。旧オ-ナ-の今田さんと練習クル-ズを行う。

 ① 2016年 練習クル-ズ 

 

マリ-ナ探しのために坂出から玉野と三原へクル-ズした。

 

  ② 2016年 夏  マリ-ナ探し

 

 半年の坂出を離れて広島・廿日市のマリ-ナへ移る。  2017年み旧オ-ナ-今田さんと愛媛県かわうそ村海の駅までクル-ズした。  香川県坂出市を中心としたクル-ズ  まとめ

 

 ③ 2017年 夏巡航

 

 2018年 北部九州へ行き長崎を訪れた。

 ④ 2018年 長崎へ

 

 今度は九州東岸を目指したがホンダワラのペラ巻きに悩み、延岡で断念する。

 ⑤ 2019年 延岡へ

 

 2019年秋には東瀬戸内を周航した

 ⑥ 2019年 秋 東瀬戸内

 

 ⑦ 2020年春 笠岡諸島へ

  

 2020年 秋  四国中部北岸へ

 ⑧ 2020年 秋 四国中部北岸へ

 

 2021年 春巡航は休み

 

2021年 秋周航は 愛媛県伊予、内子町、卯之町へ

 ⑨ 2021年 秋 瀬戸内中部へ 内子町と卯之町

 

 2022年 春  隠岐の島へ

 2022年 春 島根県隠岐へ

 

 

 2022年 秋 長崎県 五島列島から大村へ

⑪ 2022年 秋 五島列島、 大村に翌年春まで係留

 

 2023年 春 大村より南九州、 宮崎日南で3週間入院、倉敷へ

 ⑫ 2023年 春 大村より南九州へ

 

 

 2023年 秋  四国88ヶ所を開始、 徳島へ

⑬ 2023年秋  お遍路寄港開始

  

 2024年 春  四国88ヶ所 お遍路再開

 ⑭ 2024年 春  お遍路寄港図

 

 2024年 秋  忽那七島へ

 ⒂ その2  忽那七島

   

 2025年 春 石巻へ  48年ぶりに日本1周を達成、宮城県亘理に来年の春まで係留

 初代速魚の48年前の 宮崎日向から石巻へ

 

 2025年 秋 亘理より田代島へ、 陸路で奥州を観光

⑰ 2025年 秋 亘理から田代島へ、 赤行程は陸路の訪問地

 

 2026年 春  塩釜より倉敷へ

⑱ 2026年 春  塩釜より母港倉敷児島へ

 

 

 小生の主な関心ごとは歴史に関する物である、下記に興味を持ってヨットで訪ねた事項を書いた。

 

海賊

  塩飽海賊と人名政

   村上海賊

  忽那海賊

 四国巡礼88ヶ所

 隠れキリシタンと世界遺産、 

   五島列島の教会

 維新英傑 

    高杉晋作

   坂本龍馬

   吉田松陰

   筑前勤皇党、  幕末芸州藩、 

  歴史的町並み

   萩城下町 1と2

   徳島阿波の神社巡り

  城廻1 と 2

    薩摩 麓(ふもと)武家屋敷12  日本遺産   

 

    全国ヨット泊地   ヨットマンのための海の駅と泊地 

    

 

           2026-6-26




 

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羽柴秀吉の四天王

 

 

   

 秀吉が長浜城主になったころに250貫文(500石?)の所領を下記の四天王に与えられた。 秀吉には古くからの家来は少なく、親類にあたる福島正則と加藤清正位しか小生には記憶が無い。 ウィキ的な知識になるが調べてみた。


 

  神子田 正治 ・みこだまさはる  不詳-1587 [

 

 

 

 織田信長が尾張国を統一した際に、父とともにその配下に入ったといわれる。永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いや永禄10年(1567年)までつづいた美濃国の斎藤氏攻めで功績を上げ、木下秀吉に請われて家臣となる。秀吉の長浜城時代、 天正元年(1573年)に近江国に250貫文の所領を与えられ、黄母衣衆となり、後に腰母衣衆に転じた。中国攻めに従軍して、三木城攻め(三木合戦)などで活躍。天正5年(1577年)、宮田光次、戸田勝隆、尾藤知宣と同時にそれぞれ播磨国で5,000石を加増された。1582年)の本能寺の変後も秀吉に従い、山崎の戦いに参加。賤ヶ岳の戦いでは一軍を率いた。その後に備中庭瀬城主として1万2,000石に加増された。小牧・長久手の戦いにおいて(敵前逃亡)を問うとして、所領を没収した上で高野山へ追放とした

 

 

 

  尾藤 知宣 ・びとう とものぶ   不詳-1590 

 

 織田信長の家臣である森長可に仕えていますが、羽柴秀吉が近江国長浜城主になる頃より羽柴秀吉の家臣になります。 墨俣に一夜城を築いたときに駆けつけて、秀吉の家人となった。(1577年)近江国長浜で250貫を与えられ、秀吉が長浜城主となった知行配分のときに1,800石を宛がわれている。羽柴秀吉が中国方面の司令官になるとともに加増されて5000石になります。(1584年)の小牧・長久手の戦いでは小牧山攻めを提案した森長可の意見を承認し、軍監(軍目付)として共に出撃したが羽黒で徳川氏家臣の酒井忠次、榊原康政らの奇襲を受けて敗走.(1585年)、播磨の高砂で2,600石を加増された。6月、羽柴秀長を大将とする四国の役に参加 1586年)に讃岐国宇多津5万石に封ぜられ、同年、讃岐丸亀城主(18万石)になった[ 1587年)、九州の役では、戸次川の戦いで失態を演じて改易された仙石秀久の後継として軍監に就任し、秀長の下で3,000名を率いて九州征伐に従軍。日向国高城攻略中、宮部継潤の守る根白坂砦が島津氏の援軍に攻め込まれた際に救援をさせなかったことを秀吉が激怒し、その咎を受けて、7月2日、知宣は(丸亀の)所領を没収され、追放

 


 

  宮田光次・ みやたみつぐ 不詳-1578 

 

 羽柴秀吉が近江国長浜城の主になったのが1573年。宮田光次は、その頃から羽柴秀吉に仕えたと考えられています。
長浜近辺で250貫の所領を与えられた。秀吉が織田信長の命令で毛利氏攻めの中国方面総司令官に任命されると、中国遠征に従軍し、播磨国内で5,000石を与えられた。別所長治の三木城攻めで討ち死にした(1578年)、

 


 

  戸田勝隆 ・とだかつたか  不詳-1594 

 

 はじめ織田信長に仕え、その後は織田氏の臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となった。長浜で250貫文を与えられ、(1577年)、秀吉が播磨姫路城主となった際に、5,000石に加増された。 その後も順調に出世をし、1587年には伊予国のうち7万石を与えられます。文禄・慶長の役に際して、帰国の途中に病死をしています。

 

 

  別説もあるようです。

    https://www.youtube.com/shorts/Y8otidih4Xk

 

 

   矢部家定・やべいえさだ  不詳―1590以前

 

 尾張に生まれ若い時より信長に仕えて奉行5人衆となる。本能寺の変までは秀吉とは縁が無かったようだ、織田信孝の四国攻めに同行していたが淡路に居て本能寺の変後の軍の散逸を免れて、秀吉の中国大返しの軍に合流する。山崎の戦いに参加。以後は秀吉に従う。

 子が無く養子の定家は1万石を領したが関ケ原で西軍に属して改易された。

 

 

   青木重短・あおきしげのり  生没不明

 

大政所の妹を娶った[6]ことで、秀吉の叔父となり、豊臣家の一門衆に列した。禄高、所領などについては不明であるが、武将として特に活躍したという記述もない。賤ケ岳の戦いでミスして消えたとある。


 
 

    賤ヶ岳7本槍 その後  

      http://hayame.sblo.jp/article/174483255.html?1781403302

 

    

   

           2026-6-20

 

 

 

源範頼  まとめ

 

 2026年のNHKの大河は秀吉の弟・秀長をやっています。 秀長が先に死なねば豊臣は滅びずに、徳川になることは無かったであろうと云われるのとは違い、範頼は最後は兄に疎まれ、追手により殺される悲劇の人となりました。

  10年余になる自分のHPやブログにある範頼をまとめてみました。

      2026-6-16


 

   源範頼

                   
  

 1150-1193?

  源範頼は義経と同様な運命になった割には知られていません。地元にゆかりがあると言われるので調べてみました。

 範頼は頼朝の異母弟で、義経の異母兄です。 遠江国蒲御厨で生まれ育ったので蒲冠者,蒲殿と呼ばれる。 兄の頼朝の代官として源義仲(木曽義仲)追討の大将軍となり、上洛して弟の義経軍と伴に義仲を滅ぼす。 一の谷合戦では3万と言われる主力大手軍を率いて戦い、また義経軍は1万の搦手軍を率いてその奇襲により平家に勝利した。 その後中国と九州の平氏側の御家人を味方につけ平氏を長門国に孤立させる。そのせいで義経は屋島の戦いで勝利する。続いて壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。

 義経と頼朝が対立した、義経は藤原泰衡の襲撃により自害する。頼朝の奥州藤原氏を滅ぼした軍に参戦する、これが最後の出征となる。 曽我兄弟の仇討事件をきっかけにして謀反の疑いを受ける。伊豆の修禅寺に幽閉され謀殺されたという。

 平家滅亡までは主力を率いて勝利し貢献大です。義経が有名ですが範頼が平家の主力を押さえていたからこそ、義経の奇襲が成功したともい云えます。


 頼朝は封建制の常で兄弟はいつもライバルです。うまく弟たちを使ったともいえますが、3代で鎌倉幕府が滅びる原因にもなりました。
 


 

 

     範頼ゆかりの地 その1


       
 1. 蒲さくらは、範頼の杖についていた種が成長して、蒲冠者のいわれから名がついた樹齢800年以上の桜です。蒲桜の根本にある墓石は逃れ住んだ範義のものといわれています。

    

 北本市 石戸蒲さくら 天然記念物

       

 東光寺 範頼創建といわれている



2. 範頼の妻、亀御前は範頼の死を知り、荒川に薙刀を持って身を投げて、その薙刀が常勝寺に残されているといいます。(ここはシナ駐屯第1歩兵連隊供養地の寺でもある)

         
 

 常勝寺  
 


 3. 北本市にある高尾阿弥陀堂は亀御前を供養するために建てられたといわれて高尾さくら公園隣にある。 亀御前の石塔と薙刀は常勝寺にここより移されたといいます。

                    
 

 高尾阿弥陀堂 鐘楼



  4.. 石戸神社は1199年に亡くなった範頼の息女・亀御前の供養のために建てられたといわれている。遺跡堀之内館の中に神社はある。堀之内館は源範頼の住居の地と伝えられている。


                

 石戸神社                
  
   

 石戸神社入口

       
 

 神社の奥にある2つの小さな社この後ろに土塁と堀の遺構がある

                    
 

 

 土塁と堀の遺構

  

 

  石戸神社由来

          

  

       交通

   北本駅西口から北里メデイカルセンター行きバスで15分・190円
    蒲桜行も少数あります。



           2015-7-14

 
      源範頼 ゆかりの地 その2  

 
  源範頼の居館跡は北本にある石戸神社を含む堀之内居館跡と吉見にある現在は息障院というお寺に居館跡の2つです。

 吉見にある居館跡を訪ねてみました。住所は吉見町御所374で御所という地名を今でも残しています。 落ち着いた境内のたたずみです。 庭もよく手入れされています。 南東部にある幼稚園を経営されているようで、財政的に安定しているお寺だとうかがわれます。

 近くに安楽寺があり、範頼が平家の追及を逃れるため稚児僧として隠れ住んだ地と言われています。安楽寺も訪ねました。吉見観音とも呼ばれています。息障院から徒歩で二〇分ほどです。

 ここの本堂と三重の塔は範義が建てたといわれています。戦国の争いで近くの東松山城の戦いのときに焼失しました。現在の建物は江戸時代の再建です。ここは義経の鞍馬寺と同じ立位置にあるお寺ということになります。風情のある良い寺院です。
 

   範頼居館跡・息障院

 

 息障院の門


 

 

 息障院の本堂

 

 

  息障院の長屋門

 

 

 北西角の空堀と水堀


  
 

 南側の空堀 塀は息障院のもの


 
 

 南西部から南側空堀を望む

 

 

  安楽寺・吉見観音
 

 安楽寺・吉見観音

 

 

 

 安楽寺 三重の塔


  

      2015-9-22

  

 


      源範頼のお墓 その1

 
 範頼のお墓は伝説により8か所あります。まだまだありそうです。

 有名なものは伊豆の修善寺にあるものです。範頼は、ここに幽閉され梶原景時に包囲されたとありますので、ここで亡くなった可能性は高いと思います。 その遺骸は家臣のものではないかということで、日本中のあちこちにお墓ができるようになりました。

 後世には地元以外には忘れ去られた人物ですが、これらのお墓の数より、 当時では人望もあり評価された人物であったのでしょう。
 源範頼の子孫・吉見氏が能登や広島・安芸郡に領地を構えたところから、逃亡伝説もそこにはあり、お墓もあります。生きていてほしいとの願望・希望が伝説として伝えられたました。

     青字は訪れたところで詳細ペ-ジあり


  1. 埼玉県北本市 東光寺蒲桜下の石塔
    東光寺には範頼の位牌が保管されている

  2. 伊豆市修善寺

  3. 横須賀市金沢区  横浜金沢区 大寧寺の墓

  4. 伊予市上吾川 称名寺・鎌倉神社 鎌倉塚 (その4

  5. 広島市佐伯区三宅 観音神社  (その2)

  6. 鳥取市河原町の霊石山中腹 

  7.. 浜松市南区飯田町 稲荷山龍泉寺 
  
  8.  長門市 三隅中の生島山中  その5

  9.  広島市西区古江上 福蔵寺 (その3)


         2015-11-3  2016-10-23


  源範頼のお墓  その2
 
  源範頼のお墓 その3

  源範頼のお墓 その4

  源範頼  お墓 その5


  ヨットで隠岐へ行く途中に仙崎に立寄りました。 近くの三隅に範頼の供養塔とお墓があるということで訪れました。

 ネットで調べてみるが詳しいことは分かりませんでした。
 



 長門三隅八幡宮の親切な宮司さんに地図を書いてもらい行くことができました。

 なぜ、ここに範頼の供養塔とお墓があるのかというと、伊豆修善寺で梶原景時に襲われて範頼は亡くなった。部下の当麻三郎と小太郎が首を持って逃れてここに供養したと云われています。
 

 三隅八幡宮


 

 範頼供養塔


 お墓は案内板にたどり着けましたが、そこへ行く経路が分からずに見ることはできませんでした。
案内板のすぐ後ろに獣道のような登り口があって途中まで行くが不安になり戻りました。他の道も探りましたが行くことが出来ません。 案内の説明不足でしょうか? 

 範頼はこの地では大事にされていないようですね。 せっかく大河ドラマで登場しているので殺されるシ-ンが過ぎてしまうと、 ますます、ここを訪れる人は少なくなってしまうでしょう。

 隠岐のクル-ズを終えて自宅に帰って大河の録画を見ると、範頼はもはや殺されてしまっていた。範頼の復権は遠いようです。


 


 
 

 範頼お墓 案内板


          2022-8-4
 

 

      源範頼の子孫   



       2026-6-16

 

 


 

全国ヨット泊地  最新の更新  2026-6-13

 

 

      2026年の春巡航 塩釜・宮城から倉敷・岡山を終えて、全国ヨット泊地を更新しました。

 

 

      全国ヨット泊地  最新の更新  2026-6-13

 

     関東以北のヨット停泊事情  更新   2026-6-8/

 

 

 

      2026-6-13