中島・忽那島に停泊中に、北東風の強風に見舞われた。台風以外にフェリーが欠航することが少ないと云う日になった。 レンタサイクルで出かける日でもない。 そこで、島を一周している路線バスにて見て回ることにした。
大浦港と西中港は島を横断することになるトンネルで結ばれている。 前回訪問した時にはそこを抜け、自転車を借りてトンネル以南を走破した。今回は、トンネル以北の北半分を廻るバス路線があるので乗車した。 その後神浦(かんのうら)にある忽那公碑を見に南回りの路線に乗った。
中島には大浦港、神浦港、西中港へ連絡船が入出港する時刻ごとに合わせて連絡バスが運行している。東西航路のどちらかが天気の関係で運休しても、バス利用して中島の島民は松山へは行けるようだ。今日は東航路は運休で、西航路は走っていた。
忽那諸島 中島汽船航路図、 赤線は東航路、青線は西航路、 フェリーと高速船が就航
北回りコ-スでは途中でバスが停止して運転手さんが降りて倒木を取り除く珍しい場面に出くわした。 周辺の民家も少なく住民重視の福祉路線のようだ。 私一人が乗客である。
運転手が降りたシ-ン、 乗客は小生ひとり
南回りコースは神浦(かんのうら)で下車して忽那公碑を見る。 南北朝時代に活躍し忽那水軍の黄金期を支えた忽那義範が、南朝方の懐良(かねなが)親王を北朝の足利方からお守りしたことを称えている。忽那諸島を今回に巡ったけれど忽那水軍・海賊を記念したものはこれひとつだったような気がする。懐良親王がどこに住んだのかも分からなかった。
忽那義範は鎌倉時代後期から南北朝の時代の忽那諸島を本拠とした水軍の武将。南北期は宮方に属した。南朝の懐良親王をこの島に1339年から3年間保護した。軍功により柱島や備後の灰田郷の地頭職、周防国長野郷地頭職を安堵される。晩年は、足利尊氏との対立により宮方に転じた足利直冬と連携し活躍した
忽那義範公表忠碑、 瀧神社内
2024-11-22