村上武吉は宣教師のルイス・フロイスにより日本の海賊王と評された。その村上武吉が書いた兵法書(村上舟戦要法)が秋山真之によって日露戦争での日本海海戦に貢献した。また、日本の海運業の主要部分を占める愛媛船主、最近の巨大コンテナ船がスエズ運河座礁事故を起こした船主の今治造船など現在にも彼の遺伝子は大きく日本に影響を与えています。

 村上武吉は因島、来島、能島村上家の頭領というべき能島村上家に1533年に生まれた。能島騒動と言われる家督争いで敗れて九州の菊池家に避難して育つ。叔父の笠岡に拠点を持つ村上隆重の支援を受けて能島に帰り当主を奪還する。陶春賢と毛利元就の戦い・厳島の戦い(天文24年・1555年)では毛利に加勢したと言われています。

 
 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。 当時の陸地勢力を概観すると九州の大友氏、中国の大内氏・陶氏,安芸の毛利氏、山陰の尼子氏、備中備前の浦上氏、四国の河野氏、近畿三好氏と織田氏らの勢力の伸長に影響を受け村上武吉は挙動した。 彼の最盛期には東は塩飽列島の本島、西は上関や下関の赤間に関を設け本拠地の能島とその支城群で瀬戸内一帯を支配した。


 毛利元就が死去すると村上武吉は毛利氏から大友氏につく。毛利の小早川隆景が能島城を攻めた。来島や因島村上は小早川に従う。孤立した武吉は降伏して毛利家に組み込まれる。 武吉は毛利と織田が対立した第1次木津川の戦いに出て勝利したが第2次では敗れる。豊臣秀吉の中国攻めでは来島村上家が秀吉につく。それで武吉は対立した来島を占領する。しかし本能寺の変後に秀吉と毛利は和睦し、武吉はこれに加わらなかったので再び小早川に攻められて能島を明け渡す。1588年秀吉による「海賊停止令」に背いたと詰問された。安芸竹原(鎮海山城)や筑前に移る。小早川家が隆景から秀秋へ代わると筑前を離れて、再び竹原に戻る。 能島村上の家督を嫡男の元吉に譲り、元吉は文禄・慶長の役で朝鮮で戦う、関ケ原の戦いでは西軍で戦い元吉は死亡する。毛利は防長2か国に厳封され三田尻で船手衆を務める。1604年武吉は72歳で死去。

 秀吉の全国統一と「海賊停止令」により独自の海賊衆としては終わる。 海賊といってもこの武吉の時代までには船荷を襲うようなことは無かった。 武吉の時代には海賊へ警固料を払って海賊を乗せる「上乗り」と呼ばれるシステムがあり、襲われないことの他に潮流の複雑なこの海域を水先人のように航行の安全をはかっていた。 武吉は文化的素養も高く大山祇神社で催された連歌会での多数の連歌が残されている。

 個人的には3年ほどかかってヨット巡行で訪れた地や城が関連付けられて、村上武吉によりまとまってきたように思える。 また、新たに訪れたいところが増えたようだ。