瀬戸内海賊衆・村上海軍  まとめ

 瀬戸内にある村上水軍やその城をまとめてみました。
 
  1.  村上水軍・海賊衆
  2.  小丸城
  3.   青木城
  4.  美可崎城・手守城・島前城
  5.  新居浜・大島

  6.  本太城

  7.  讃岐広島

  8.   新居浜の城  富留土居城・岡崎城・金子城

  9.  鞆城

  10.  笠岡城

  11.  真鍋島

  12. 鞆の浦

  13.  因島散歩

  14.  岩城新城

  15.  岩城島

  16.  亀山城・岩城島

  17.  鼻栗瀬戸

  18.  御手洗(みたらい)

  19.  毛利元就の調略 厳島の合戦における

  20.  鹿島城と得居通幸

  21.  村上来島海賊

  22.  熊島城  村上水軍博物館

  23.  青影城  因島村上水軍城、資料館

  24.  宇多城

  25.  東山城  塩飽本島笠島

  26.  甘崎城

  27. 大三島

  28.  塩飽本島笠島

     

    村上水軍・海賊衆

  村上水軍博物館と因島村上水軍城・博物館に行ってきました。 村上水軍はひとつであると誤解していましたが、熊島村上、来島村上、因島村上と3つに分けられます。
 下図のように芸予諸島は広く縦長なので、瀬戸内を抑えるためには、地理的にも3つに分かれたのでしょう。


 

  村上氏は信濃の村上郡からとった名称のようですが、古くは諸説あり判明しません。
村上義胤に3人の息子がおり、長男義顕(雅房)を能島に、二男顕忠(吉房)を因島に、三男顕長(吉豊)を来島に置いた。

 戦国時代になって、因島は毛利につき、来島は河野氏の直属の水軍になり、熊島村上武吉は武勇高く独立した存在であった。毛利元就厳島の合戦に加わり陶晴賢軍を破る。
その後は毛利から離れる動きがあったが、1574年毛利に降った。 信長との木津川口海戦で息子の村上元吉が指揮して勝利した。 来島村上通総は秀吉に降り、来島姓を名乗る。
 熊島村上親子は秀吉に降った来島村上を攻撃したことを秀吉に恨まれて天下統一後に退去を命ぜられた。天正16年には海賊禁止令が発せられ、海賊特権はなくなる。


       2016-7-30


青木城・ 小丸城




 因島の城 その2 

    小丸城


aokizyo 00.jpg


  因島村上家の第2家老稲井氏の城。居館は現在の対潮院にあった。いつものように何人かの人を煩わせた。ありがとうございます。地元の人にも古い人はともかく若い人には小丸城のことは伝わっていない模様。  裏の墓地への階段を登って行く。 途中に南北朝の戦いで釣島箱崎箱崎浦合戦の供養碑があちこちにある。 海上戦とも言われる戦いで亡くなられた方がここに弔われたということであろうか。 その時に今のような墓地があったわけではなく、この城もあったかどうかは分からない。 山頂と思われるところまで墓があった。 それより歩行困難であったので終わりとした。

 ここは海岸近くというわけではなく因島の東岸や西岸への好立地であるので、求めに応じて加勢するためのものではないでしょうか。



aokizyo 21.jpg
 墓地の裏の山が小丸城跡


aokizyo  20.jpg
 登り口  対潮院の裏


aokizyo 22.jpg
 あちこちにある釣島箱崎浦合戦で戦死者を弔う碑


aokizyo 23.jpg
 本丸と思われるところ





   青木城


 一昨年に弓削海の駅でヨットの漏水事故が起きて、その修理備品を待って5日ほど滞在した。 部品を引き取りに隣の島因島マリ-ナに出かける。 行く途中で青木城の案内板を見つけたが、先を急いでいたので残念を持ったままであった。 今回は自転車でここを訪ねた。



aokizyo  30.jpg
 青木城と付け城の馬神城



 1567年に因島村上氏6代村上新蔵吉充が向島余崎城より青木城へ移った。 吉充は信長と対戦中の石山本願寺へ兵糧を掘んだことで知られている。

 ここは三原の瀬戸を押さえる位置にある。青木城は海に囲まれた海城であった。 昔の地形が定かではないが隣の馬神島であった。海峡を隔てたそこに出城の馬神城があった。今回はそこへ訪れていない。


aokizyo 06.png




aokizyo 08.jpg
 模型


 
 本丸から続く北側に大手門、東へ尾根つたいに2の丸、3の丸、搦手と続く。


aokizyo 01.jpg
 この理容店の横を登っていく



aokizyo 02.jpg
 青木城  標高51m



aokizyo 03.jpg
 石垣



aokizyo 05.jpg
 本丸の柱石



aokizyo 07.jpg
 本丸にある竜王神社  ここで昼食する


 帰りには自慢のオリンピックで購入したフリ-パワ-の自転車がパンクした。 あいにく日曜日で修理が出来ず。 タクシ-を呼び、折りたたんで後部トランクに積み、土生港へ行き、連絡船で弓削まで帰った。



aokizyo 04.jpg
 パンクした自転車


      2021-1-18
 
 

美可崎城・手守城・島前城

 
  因島の城 その1  美可崎城・手守城・島前城


mikasakizyo 00.jpg
 美可崎城、千守城、島前城

 ヨットを係留した弓削海の駅より船に積んでいた自転車で因島城探索に出かけた。 上弓削よりフェリ-にて(自転車100円)因島家老へ渡る。

mikasakizyo 01.jpg
 上弓削の因島家老間の上弓削 フェリ-乗場

  美可崎城

 因島東岸を走って地蔵鼻へ向かう。そこは恋人たちの聖地とかであるが、今回はそこにはいかず岬の先端に美可崎城を訪ねた。

mikasakizyo 02.jpg
 美可崎城の入り口ゲ-ト


mikasakizyo 03.jpg
 美可崎城図

mikazakizyo  05.jpg
 本丸へ

mikazakizyo 06.jpg
 本丸から向島を望む


mikasakizyo 04.jpg
美可崎城  船隠し

 美可崎城は因島村上海賊の家老南氏が金山氏に通行料を徴収するための見張り城であった。 鞆の浦尾道からの船を見渡せる位置にある。
石田造船のある道を登ってきたのだが、ここの帰りは反対側の道を一気に下って降りた。



  千守城・ちもりじょう


mikazakizyo 14.jpg
  千守城

近くの千守城に向かう。なかなか登城口が分からず、いつものように地元の数人に尋ねた。安楽寺の傍から登って行く。気を付けていくようにと注意を受けたが案外と険しいものではなかった。 標高79mの地に本丸を囲んでほぼ円状に4段に築かれている。石垣の残っているものと井戸を見つけた。 山頂の本丸には社が祀られている。
南北朝の時代に竹原小早川氏の一族が居城し、戦国期には因島村上氏の家臣篠塚貞忠の居城という。


mikasakizyo 10.jpg
 安楽寺


mikazakizyo 11.jpg
 縄張り図


mikazakizyo 12.jpg
 石垣


mikazakizyo 13.jpg
 井戸


mikasakizyo 29.jpg
 千守城本丸からの眺望



     島前城と亀島城(出城)

  因島南部に東岸から西岸へ島を横断する道路があり、そこを自転車で走行する。 途中大山神社がありガソリンスタンド横に釣島箱崎浦の合戦跡の碑を見つけた。 釣島は今は鶴島と呼ばれている。 新居浜大橋で述べた村上海賊の祖が死亡して娘婿と言われる今岡通任が因島へ進出、島前城に本拠を構えた。 信濃の国より村上師清は瀬戸内に下向した。讃岐塩飽を支配し能島に進出。
鶴島箱崎浦の海戦で勝利して因島に上陸し今岡方の武将を破り義弘の明晰を継いだ。この村上師清が能島・来島・因島の村上海賊の祖となる。
 

mikasakizyo 40.jpg



mikasakizyo 50.jpg
  釣島箱崎浦合戦地図

  いつものことであるが、ここもたどりつくにに苦労した。すぐ横の崖の上にあるとわかっているのだけれど何人かの人に尋ねた。
ここだと思って登って行った山は隣の山だったようで藪を書き分け書き分けて行ったところはテレビアンテナを引いているだけの山頂であった。


mikasalizyo 30.jpg
  間違えた登山口



mikazakizyo 51.png
 島前城跡配置図。田中稔因島史考」による


  因島市民会館と芸予文化情報センタ-(図書館)で尋ねて図書館の横の階段を上った空き地だとわかった。

mikasakizyo 35.jpg
 海岸道路から見た島前城


mikasakizyo 31.jpg
 本当の入り口  土生町図書館横


mikasakizyo 32.jpg
 本丸


mikasakizyo 33.jpg
 北西方を望む

 島前とは海峡を挟んで亀島がありそこに出城の亀島城があったがゆえの名称であろうか。

mikasakizyo 34.jpg
 亀島城

 
     2021-1-16


新居浜・大島





niihamaoosima 02.jpg
 赤星印はヨット係留港



 新居浜大島に行きたかった。 2020年秋のクル-ズの目玉として期待した。 村上海賊の発祥の地である。 村上義弘がここ大島城に拠点を築き、そのご発展して伊予大島に本拠を移した。瀬戸内の地図を俯瞰すればより適地を選んだということであろう。






kaizoku map.jpg
 瀬戸内海賊拠点




nihamaoosima 01.jpg
 案内図と地図番号

 ④ 村上邸・ 庄屋跡・1360年頃 村上義弘活躍
 ⑨ この北に船隠し・ 水軍船つなぎ場
 ⑯ 大島城本丸
 ⑰ 城の鼻・ 大島城出城
 




 この時まではGoogl mapでの城跡さがしの欠点を承知しておらず、点線で示される城跡までの山道を探すことになる。二の丸跡へ行こうとするがすぐ横の海岸道を歩いて来たが登山口は見つけられない。 近くの観音堂へ行ったが、そこは城の鼻の出城であると後に分かった。





nihamaosima 10.jpg
  写真右は海岸で左は山崖でその奥が二の丸跡





nihamaosima 11.jpg
 観音堂



nihamaosima 13.jpg
 城が鼻



 近くの老人を見つけてお城のことを尋ねてみた。 子供のころは本丸跡で遊んだとのこと、人口が少くなって耕作放棄するようになり、そこは農地であったが今はとても行けないだろうとの返答を得た。 それゆえに二の丸と本丸を分ける山道が有りそこへ行ってみた。





nihamaosima 12.jpg
 写真右は二の丸で左は本丸



 古くから開けた連絡船乗場のある集落に行った。 村上義弘ゆかりのこの島の庄屋邸・村上邸を見る。そこの当主と思われる人が出て来られたのでその尊顔チラと拝見した。信長の子孫のアイススケ-タ-の顔が現存する信長肖像画にその面影があるように見えるのだが、失礼ながらそうであろうかと勝手に想像した。



nihamaosima 14.jpg
 村上義弘邸跡



 船隠し跡など島の北側にあるけれども陸路から行くのは困難で、ヨットで行くにも水深の確認を要するので断念した。



       2021-1-8

 
 

本太城



motohutozyo10.jpg
 児島周辺図

 児島と云っても、それどこ?と聞かれる。 小生のような古い世代には児島の干拓の名前には義務教育で習った記憶があるので、その内容はとっくに忘れても児島は聞き覚えがある。 児島市と水島市は倉敷と合併して現在の児島は倉敷市の一部です。 瀬戸大橋の本土部分の接続地点でもある。
 児島は昔は島であった。本土とは藤戸の鳴門といわれる海峡で隔てられていた。 本太城は児島西岸にある本太岬の要害にあり、北に本太湊を備えた山城と海城の複合城郭であったという。
 永禄11年・1568にこの城で能島村上水軍村上武吉の家臣島吉利(しまよりとし)・と讃岐の香西氏が争った。村上が勝ってこの城を奪う。しかし今度は三好氏の後援を受けた香西氏の反撃を受け大友氏の仲介で和睦した。能島村上氏は豊後の大友氏と組み反毛利となったので、小早川隆景により落城した。天正8年1580まで存在したがその後は不明である。


motohutozyo 01.jpg
 案内石碑

 Googl mapはまだ習得していないが、この時は成功した。 児島駅より倉敷行きの下電バスに乗った(2系統の倉敷行きがあるので水島に寄るバスに乗る)。 車内でスマホのマップで太本城をクリックして特定し、バスの運行にあわせて現在地の表示がその位置に接近したところで停車ボタンを押し下車した。 ほどなく案内の石碑を見つけた。


motohutozyo 03.jpg
 この武家屋敷風の建物の上の山が太本城

 一帯が公園になっており遊歩道を上がっていく。 本丸を囲む低石垣があった。


motohutozyo 05.jpg
 本丸を囲む石垣


motohutozyo 07.jpg
 山頂には天満宮がある。 この階段は利用しなかった。

 海側の崖を望むとすぐ近くに水島工業地帯の工場がある。操業している音がまじかに聞こえる。事故で爆発したら危ういなあと思いながら散策した。


motohutozyo 04.jpg
 水島の工場群


   2020-12-11

 

讃岐広島




 香川県にある中部瀬戸内海の広島へ行きました。 ヨットで備讃瀬戸をよく航行したことがあるが、讃岐広島は比較的大きな島で沖から眺めるとビルもあり一度訪ねたいと思っていた。
ちなみに、発音は「ひろ↑しま↓」と発するようで広島県のは「ひろ→しま→」は平坦に発声するという。





bisanhirosima 00.png
 丸亀沖の備讃広島



busanhirosima 03.jpg
 江の浦  赤丸は停泊位置



bisanhirosima 01.jpg
 連絡船の反対側に係留



 讃岐広島は丸亀市に属するので丸亀より江の浦への連絡船がある。その反対側のフロ-テイング桟橋に今回はヨットを係留した。 1年ほど無駄に積み込んでいたフリ-パワ-の自転車をすぐに桟橋に降ろして島1周をもくろみ意気込んで、まず時計回りで東海岸へサイクルする。



bisanhirosima 04.jpg
 広島案内図



 江戸時代の廻船問屋であった尾上邸を見た。 すぐに坂道が続くようであったので、早くも東岸よりにて島一周するための北上を断念して引き返すことになった。



bisanhirosima 05.jpg
 城を思わせるような尾上邸



 南岸沿いに行く。 沖からからよく見えていた小中学校は10年前に廃校になっていて、どうりで校庭が静かな訳だ。 大きな島の割には人口が少なく450人ほどである。



bisanhirosima 08.jpg
 元小中学校  現コミュニテイセンタ-



この島は青木石の採石で有名、あちこちに関連の施設が見られる。



bisanhirosima 06.jpg
 青木石の採石場



 かって海技試験を受けてものにはなつかしい、試験によくでる問題には備讃瀬戸の航法がある。  海上交通安全法施行以前であったと思うが、「波節岩(はぶしいわ)を左舷にみて航行する」は必須の知識であった。 その岩礁灯台が大島の南岸沖1kmにある。



bisanhirosima 11.jpg
 波節岩 灯台



bisanhirosima 098.jpg
 大島西岸からの風景




     2020-12-9


新居浜の城  富留土居城・岡崎城・金子城 




  秀吉の命を受け四国討伐の軍を小早川隆景らは新居東の国領川東の宇高,沼津の浜に上陸し、高橋氏の守る「富留土居城」を攻め、続いて藤田山城守義雄の守る「岡崎城攻」略し、金子元宅の「金子城」の留守を守る対馬守元春を攻略した。この戦いは天正の陣の一部になる。降伏をせずに戦ったのはこれらの城の戦いだという。 ちなみに四国の瀬戸内側の城では小早川の名はよく耳にする名前ではある。



fudoruizyo 00.jpg
 伊予大島より新居浜マリ-ナへ



 小生は伊予大島より新居浜マリ-ナにヨットで上陸して、これらの城を探索した。 マリ-ナより徒歩でGoogl mapを頼りにして富留土居城を目指した。ショ-トカットをしたつもりが、いつのまにかJR多喜浜駅に着いてしまう。 道に迷ったようだ、滅多にないけれど、今日はタクシ-での小早川隆景のたどった城廻りとなった。 大名旅行とはこのことか。 運転手も富留土居城を知っているわけではないので、スマホのマップでそこに接近しているかどうかを、こちらが指示しながらの探索となった。 城跡と思われる地点でタクシ-を止め、そこは住宅地で何もない。 庭先におられた住民に聞いてみると、その横(下記写真)にあるとのことであった。 なんと新御城主様にお尋ねした次第であった。 その石碑は突然に10数年前に建てられたものだそうである。



fudoruizyo 01.jpg
 石碑と案内板



 富留土居城は堀と土塁を囲った平城で現在は住宅地に開発された。 秀吉の時代まであったお城にしては何も残っていないのは珍しい。



 次は岡崎城に向かう。運転手さんはここへは小学校の遠足で来たという。 JRの線路わきの地で西側を国領川で守っている。



iyookazakizyo 01.jpg
 岡崎城の由来



 主郭のある山頂には入り口がわからずに行くことが出来なかった。 曲輪の跡や竪堀、堀切、石垣が見られるという。 ふもとにある宝篋印塔や鉾前神社にはいくことが出来た。


iyookazakizyo 02.jpg
縄張り図   城郭放浪記より




iyookazakizyo 03.jpg
 宝きょう印塔  薬師堂  城主の藤田山城守の建立?と言われる



iyookazakizyo 04.jpg
 鉾前神社


 待たせてあったタクシにより金子城に向かう。 ふもとは池を挟んだ公園になっている。 




kanekozyo 02.jpg
 金子城跡石碑



 金子氏は埼玉入間郡金子郷から地頭として新居へ下向した。この城は金子広家により築城されたと言い、天正の陣のころには長曾我部にこの地は安堵されていたので小早川隆景に攻められて落城した。 本丸に石碑が建つのみで他の遺構は見つけられなかった。 80mほどの山城ゆえにタクシ-で第2展望台まで乗り、そこから本丸までの徒歩は下から歩いてきたのに比べれば楽なものであった。帰りは急な階段が下まで続く他の道を降りたので、徒歩10分ほどで着いた。



kanekozyo 05.jpg
  本丸から新居浜を望む



      2020-11-28


鞆城

 




tomozyo 03.jpg


  鞆の浦には鞆城ができる前には鞆の浦に隣接する島に大可島城があった。1553年頃毛利元就の命により、尼子氏の抑えとして鞆の浦を望む丘に鞆要害を築いた。1575年そこに京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護のもと「鞆幕府」を開いた。 

 1600年・関ケ原の戦い後に安芸・備後を領した福島正則がここを修築した。本丸、2の丸、3の丸と1609年まで築城された。城域は北は沼名神社参道、東は福善寺南は鞆港の大規模でなものであった。3層3階の天守があったというが、家康の嫌疑がかかり廃城となった。

 福島正則1619年に広島城を幕府に無断で修理したとして改易されるが、それ以前に鞆城の件があったのだ。その資材は福山城新築にに持ち込まれたという。江戸時代を通して町奉行所が置かれた。 





tomozyo 02.jpg
 この石垣は当時のものかは不明、ここを登ったところにある歴史民俗資料館あたりが本丸






tomozyo 01.jpg
 3の丸石垣



     2020-8-11

 
 

笠岡城


 瀬戸内にある「お城」によくある例だが、塩田や干拓に城の石材などが利用されてしまった。この例のひとつが笠岡城である。 笠岡城の名称も使われずに「古城山」としている。

 そこへ行くには、大きなス-パ-の裏にある山道を登っていく。 笠岡城跡・古城山公園をめざす。 ふもとに関鳧翁(せきふおう)の墓があった。  墓に書かれてある名すら分からないので、知らべてみる。 幕末の漢方医歌人国学者である。 彼の歌日記にはペリ-来航のようすが詳しく述べられている。 隣の福山藩が幕末の譜代の大老阿部正弘の地であることから、こんな田舎にもペリ-来航の情報が入手できたのかもしれません。

 笠岡城は1556-1558に能島村上水軍の一族、村上隆重が築城。関ケ原合戦後に家康の所領となる。1616池田備中守が入る。1619に備中松山城に移り廃城となる。

  村上水軍・海賊衆
   http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-264


kasaokazyo 01.jpg
 古城山・笠岡城公園  案内図


kasaokazyo 02.jpg
  関鳧翁(せきふおう)・関政方(せきまさみち)1786-1861の墓   


kasaokazyo 03.jpg

 このような道が出来ていて車でも行ける


kasaokazyo 06.jpg
 石垣が見えた


kasaokazyo 04.jpg

 公演は平らに聖地されていて、 城との関係は不明  本丸と思われるが。


kasaokazyo 05.jpg
 下を眺めて見る


   2020-7-28
 

真鍋島



 白石島から高速船に乗り真鍋島へ行ってきた。 真鍋城とヨット停泊地を探る目的であった。


 真鍋島・本浦港の桟橋で船を降りて、海岸沿いの道を城山方面に向かう。 途中で同じエプロンをしたお地蔵さんを数か所で見かけた。信仰の厚い島民がいるようだ。静かな佇まいで車や人に会うことは少ない。 普通船だと岩坪港に寄港する便もある。






manabezima 12.jpg
  笠岡諸島  白石島から真鍋島航路  (笠岡-高島-白石島-北木島-真鍋島)









manabezima 13.png
 真鍋島案内図






manabezima  11.jpg
 真鍋島本浦港 高速連絡船乗り場  中央緑の桟橋




manabezima 06.jpg
  道端のお地蔵さん




manabezima 09.jpg
 岩坪港 普通連絡船赤桟橋



 都会からの移住者が建てられたのか、デッキのあるシャレタ家の住民に城山への道を尋ねる。この横のみちを登って行けると教えてもらう。

 この島を支配した藤原氏を由来とする、また。島の名前にもなった真鍋氏のお墓だという五輪の塔を見る。


 真鍋島移住案内サイト
 https://manabeshima.life/





manabezima 01.jpg
  五輪の石塔群  真鍋氏の墓と言われる  



 そこから道なりの道を登っていくと畑のあぜ道に迷い込み、帰れるかと焦ってしまう。  何とか引き返しておばあさんに会い、道を教えてもらいました。 しばらくして案内板がある。




manabezima 07.jpg
 城山案内板



 さらに登っていくと、遊歩道は草に覆われて見分けがつかない。 連絡船切符売り場に用意されていた杖を借りていたので、小雨用に持っていたかさと杖を持ち両手で笹をかきわけ搔き分け分け前進する。やっとの思いで着いたところは名も知れぬお墓だった。そこも道を間違えたらしい。  城山展望台(備中城山城)断念してもどる羽目になった。 そこから遊歩道を南下して備中真鍋城も訪ねるつもりであったが、これも行くことができなかった。

 後で連絡船の関係者にこのことを話して尋ねたところ、年に1回ほど遊歩道の草刈りを実施するが、そのあと1か月くらいで草が生えてきて元の木阿弥になるのだそうだ。





manabezima 08.jpg
 草に隠れた遊歩道



 本浦の連絡船乗船所にもどり帰りの便まで1時間ほどあったので近くの街並みを見学した。 真鍋氏の本宅は空き地になっていて立て札があるのみであると聞き、分家の真鍋宅を訪れる。 ホルトノキが軒先にあります。




manabezima 05.jpg
 真鍋邸 国指定登録文化財  現在は居住していない





manabezima 04.jpg
 ホルトノキ 

  ホルトノキは、熱帯~亜熱帯性の常緑高木で、暖かい海岸沿いに自生しています。
ホルトとはポルトガルの意味で、昔、果実の形がオリーブに似ているために誤認され、名付けられた呼び名という説があります。 




manabezima 02.jpg
  街並み


鞆の浦


  日本最古の民家がある街


 初代のヨット速魚でこの鞆の浦の湊の中央位置に錨泊した記憶がある。はるか47年前のことになる。 新造した時に、造船所のある明石から係留地の宮崎・日向までの廻航途中で、とにかく初めて購入したクル-ザ-の航海ゆえ、不慣れで急いでいた。 夕方に来て朝早くには出て行く。アンカ-を上げるときにはヘドロが多く絡んきた、上陸せずであったので、この泥の記憶があるのみである。

  今度、ヨットで来るために係留場所を探してみたが、ふさわしいところは見つからなかった。 ここへ訪れたヨットマンによると、近くの仙酔島に係留して、今は帆船の形をしている連絡船で鞆の浦に来るという。 今回の小生の訪問は白石島にヨットを係留して、フェリ-(540円)で笠岡まで行き、JRで福山(240円)へ、バス(540円)にて鞆の浦に着いた。 それほど遠いとは感じなかった。

 

tomo 04.jpg
 弁天島とその奥にある仙酔島


 瀬戸内の潮流はこの付近で東西からくるものが合流するといい。昔から潮待ちにふさわしい地であった。ここは古くから瀬戸内きっての湊町として栄える。 幕末には「七卿落ち」や龍馬が「いろは丸」の衝突交渉地としてこの地に立ち寄った。平賀源内の生き神様として祀った碑もある。


武田鉄矢が語る江戸期の海運と経済と龍馬といろは丸
https://www.youtube.com/watch?v=79k8yWOKhF8  30分


tomo 17.jpg
  鞆の浦絵図




tomo 15.jpg



  船具店の前に、知られてはいないが日本最古の民家がある。



tomo 08.jpg
 日本最古の民家 秀吉の頃という 学術調査が行われた




tomo 19.jpg
 龍馬滞在地、隠れ部屋があった




tomo 01.jpg
 平賀源内の生祠




tomo 03.jpg
  街並み その1




tomo 10.jpg
 街並み その2




tomo 06.jpg
 岡本家長屋門  福山城から移築された



 神功皇后が上陸された地に渡守神社御旅所がある。


tomo 07.jpg
 渡守神社御旅所



 山中鹿之助首塚とその横には悲恋斧語りの「ささやき橋」があう。

 

tomo 09.jpg
  山中鹿之助首塚




tomo 13.jpg
  ささやき橋  少し道路に段差がある程度で気付きにくい



 コロナの影響がまだあり、対潮楼といろは丸展示館は土日の開館に制限をしており、内部を見ることはできなかった。
 


tomo 14.jpg
  対潮楼  よく紹介されて有名な場所である、ここから眺める景色はすばらしいと評判




 龍馬の乗った「いろは丸」は鞆の浦近くの海域で紀州藩の船と衝突沈没した。



tomo 18.jpg
  常夜灯といろは丸展示館(中央白い建物)



    2020-7-9
 
 
 

因島散歩

 


innosima 20.jpg
  因島マップ


 因島は本四連絡橋・しまなみ海道のなかにある向島生口島につながる島です。造船業が盛んな島でもある。 以前に因島水軍城へ行きました。今回は注文したヨットの部品の受け取りに弓削海の駅より因島へ行く。

 往きは弓削より因島土生まで今治発の連絡船に乗る。土生で下船して、弓削にはホ-ムセンタ-がないので因島モ-ルまでタクシ-で行く。そこで工具等を購入した。 ここより土生発三原行の別会社の船便があり、乗船して途中の重井で下船した。 ここから因島マリ-ナへは徒歩になる。途中の民家は独特な作りで左官のワザなのか土蔵風の塗りこめの窓が珍しくこの土地だけのものなのかと思われる。



innosima 01.jpg
 重井の民家その1


innosima 02.jpg
 重井の民家その2

 
 丘を越えて次の入り江まで歩くのだが、途中の丘上には除虫菊畑があるようで、その入り口の看板があった。因島ではキンチョ-の島なのであろうか。 丘を下ったところにコ-プの店があり、弁当と水を購入。島の中でこの種の店をみつけるのは珍しいので、それなりの人口があるのでしょう。 ほどなく青木城跡の案内板を見つけた。 すぐ近くに因島マリ-ナがあり部品を引き取り一刻も早くそれをエンジンに取りつけて出港したいので城跡へ行くのは断念した。


innosima 04.jpg



innosima 03.jpg
 青木城跡 海抜50.6m


 重井まで来た道を帰り、土生までの乗船時間が長いので、バス便にして土生まで帰った。 島の常だが交通の乗り換え待ち時間が長く、今度は弓削の船便を待つ間に、船具屋に立ち寄りバルブ関連の用品を買う。 その向えにホテルがあり、そこは村上水軍の長崎城跡です。 ちょうど昼時でランチをやっていて2800円也とのこと。 部品代にお金が掛かったおり、分不相応と辞退しました。


innosima 12.jpg


innosima 10.jpg
長崎城  海から眺める


innosima 11.jpg
 長崎城

  海賊城は見張りが重要で、船舶の動静を常に監視する必要がある。従い、水道・水路の脇には城跡があることになる、今回は見ることができなかったが、荒神山城、島前城、山伏山城、天神山城など因島には多く城・砦があるようです。弓削に立ち寄った際には自転車で見て歩きたいと思っております。



    2019-7-24
 
 

岩城新城


  甘崎城の支城

甘崎城と岩城新城とで鼻栗瀬戸へ向かう4つの水路を抑えられます。

 1大三島と生地島の水路

 2. 岩城島生口島の水路

 3. 岩城島赤羽根島の水路

 4. 津波島と伯方島の水路

 村上海賊の砦は要所に多く存在しますがそれらのひとつです。

  藤堂高虎が甘崎城を改造したのだが、ここをそうしたという云われは残っていない。この岩城島の反対岸には亀山城がある。

iwakizyo 01.jpg


iwakisinsizyo 01.JPG
 岩城新城  岬の鼻のようなところには城跡が多い



iwakisinzyo 02.JPG
 岩城新城から甘崎城を望む


iwkisinzyo 02.JPG




    2018-1-3
 
 

岩城島


kameyamazyo 11.jpg

iwaki 07.JPG
高速艇 今治-岩城-弓削-因島・土生など島々を結ぶ

 弓削から320円で高速船に乗り岩城島に着きました。現在はフェリ-で行く孤島ですが平成30年代前半には「ゆめしま海道」とつながる架橋工事がおこなわれている。

 さっそく自転車を借りて島を回りました。レモンの島とも云われ青いレモンが有名です、春には桜の名所でもある。村上海賊の砦・亀山城や甘崎城の支城と言われる岩城新城といわれる城跡も見た。


iwaki 01.JPG
温泉ホテルと造船所の宿泊施設

iwaki uminoeki .JPG
いわき海の駅  冬の季節風を防ぐには良い係留場


 江戸時代には伊予松山藩の島本陣が置かれていた。現在は岩城郷土館として見ることができます。

iwaki 05.JPG
岩城郷士

iwaki 03.JPG
邸内1

iwaki 04.JPG
邸内2



iwaki 06.JPG
岩城造船 他にも3社があり


 今回は冬で見られませんでしたが、桜の季節には積善山に3千本の桜が見られるという名所がある。

iwaki 14.jpg


    2018-1-2


亀山城・岩城島


iwakizyo 01.jpg

kameyamazyo 10.JPG

 愛媛県上島町岩城島亀山城はあります。 明徳3年(1392年)村上修亮敬吉により築かれたといわれる。村上海賊の城というよりは砦である。本廓には現在は岩城八幡宮があり南北にある2つの廓とで構成されていた。
現在は陸側から神社に至る階段が設置されているが、昔は城の周りを登っていく登城路で本廓に達したと思われる。急な崖沿いの道で海側からの攻撃は難しい。城の鼻には船をつなぐ杭穴がのこっているという。潮が高く見えず。 また岩城古城・支城との間には船隠しがあったというが、現在は埋め立てれられて陸地になっている。岩城島と赤穂根島との狭い水路にある。近くの岸に岩城古城という支城があるというが小さいもので家も立っていて確かめることができなかった。教育委員会で聞いてみたが明確にはなりませんでした。

kameyamazyo 06.JPG
杭穴・ピット


kameyamazyo 08.JPG
 本廓より対岸の赤穂根島を望む


kameyamazyo 02.JPG

kameyamazyho 03.JPG
登城路

 岩城島には航行を監視する村上海賊の城が岬の鼻や見通しのよい小山にあったようだが、表示された看板が無いのか見つけられませんでした。


    2017-12-29
 

鼻栗瀬戸


hanaguri 03.jpg

 瀬戸内海を東西に航行する場合に、大型商船は主に来島海峡を、たまに流速の最強時にあたるような時は来島を避けて三原瀬戸を通峡する。ヨットの場合は上図で赤字で表したように、4航路がある。

1.三原の瀬戸 潮の影響が少ないが距離が長くなる
2.鼻栗瀬戸  500トン位までの小型船舶
3.船折れの瀬戸 急潮であるので100トン位が航行
4.来島海峡  大型船が順中逆西により航路規則がある。

 今度の年末クル-ズで鼻栗瀬戸を往復しました。幸い最狭部で行会い船に合うこともなく、無事通峡できました。どちらも2ノット位の追い潮をねらって通航する。帰りの弓削から御手洗に向けて通峡したときは、冬の季節風の強い日で、通過すると海面が真っ白の向かい風になりました。通常なら機帆走でも2ノット程度に下がり、引き返す判断になりそうな状況でした。連れ潮で4ノット程度GPSが示していたので続行、30分くらい頑張ると少し収まり、予定より少し遅れる程度で目的地に到着できました。 真向かいの風でのヨット航行で自分にとっては貴重な体験となりました。さすが瀬戸内の潮流です。

hanaguri 01.JPG
鼻栗瀬戸

hanaguri 02.JPG
手前の大三島にある 潮待に使えそうなポンツ-ン

 いつも潮流推算を使用して潮流時をサイトで調べますが、ここ鼻栗瀬戸は、それでははっきりしないので
MIRCマリン情報の潮流予測を見ました。

 4つの瀬戸を航行しましたが、ここはオススメです。

   2017-12-28

  
  音戸の瀬戸

  来島海峡

  大畠瀬戸
 
 

御手洗(みたらい)


 ヨットにとっても天然の良港である御手洗にいきました。

mitarai 12.jpg
 

mitarai 05.JPG




mitarai 13.JPG
江戸時代の高灯篭

 帆船の時代に来島海峡や鼻栗瀬戸などの潮待、諸風を防ぐ地理的条件を備えたところから天然の良港として栄えた。
 地名の由来は神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗った伝説や菅原道真太宰府に左遷されたときに手を洗ったという伝承から名がついたといわれています。
文政二年・一八一九年には中国第一の港と自負するほど発展した。

mitarai 01.JPG
菅公手洗いの井戸

 帆船から蒸気船の時代になり繁栄していた御手洗は衰えて江戸時代の街並みが残った。

mitarai 02.JPG
町並み保存地区

船乗りが集まれば芸州藩お墨付きの施設も繁栄する。4軒の茶屋があり、「おちょろ船」といって沖待ちしている船に出向いて営業することもあった。

mitarai 08.JPG
若胡子屋 広島藩から免許をもらったお茶屋 100人の遊女がいたという


mitarai 14.JPG


一夜の契りでも遊女にお歯黒をつけさせて女房気取りで結ぶのは男の甲斐性であった。これには莫大なお金がかかりました。
 ある日花魁がお歯黒をつけにくくて癇癪をおこして、そばにいた禿(カムロ)の口に投げつけて殺してしまいました。その亡霊が毎夜現をれて花魁を苦しめた。花魁は四国の遍路をしてつぐなったという。

mitarai 09.JPG
お歯黒事件の壁 お歯黒の手形がにじんでうかびあがるという

mitarai 11.JPG
船宿 大洲藩


mitarai 03.JPG
乙女座 これは昭和初期の劇場の復元

mmmitarai 06.JPG
満舟寺の石垣 戦国時代の石垣で海賊の施設跡ではないかと言われている
加藤清正の四国攻めの前線基地ともいわれる




mitarai 07.JPG
船宿 薩摩藩

 1863年に芸州藩は薩摩と密貿易をしていてその拠点港となる。幕末には七卿落ちで滞在した家が残っています。 吉田松陰が長崎にいくときに立ち寄り、薩長芸の討幕同盟がむすばれると大阪での討幕行動の密約といわれる「御手洗条約」がここで交わされる。 

mitarai 04.JPG
七卿落遺跡


mitarai 10.JPG
金子邸  ここで密約したという


   2017-12-24

  御手洗軍事同盟
 
 

毛利元就の調略 厳島の合戦における

itukusima70.jpg
折敷畑の合戦後の毛利氏周辺図

 毛利元就厳島の合戦における勝利は、奇襲といえども天運が味方したものではない。厳島に陶氏の本軍を誘引して、元就はそこでしか勝てない状況に持ち込んだことで、軍勢の劣る毛利は勝利できました。

 毛利の調略
1. 尼子氏へ
 
尼子氏の柱石ともいわれた新宮党の国久と誠久親子を誅殺させて取り除く。陶氏と尼子氏は折敷畑の合戦に連携して毛利を討つ計画があった。毛利は尼子に敵対する三村氏を支援して尼子への牽制に成功する。
2. 少弐氏へ
 少弐氏へ肥前から豊前筑前への攻撃を促す。
3.来島水軍
 村上通康と婚姻関係を結び来島村上氏の水軍勢力を力にすることができた。

kurusima 88.jpg

4.陶氏へ内通工作
  陶氏家臣の江良房栄へ内応工作しそれを発覚させることにより討たせた。

5. 偽装内通
 桜尾城主の桂元澄の内通の文書を陶氏に送る。

 以上のような様々な調略で、元就は南北西方と周りの領国に手を打ちましたが、それだけでは陶氏に勝てるわけではありません。兵力が少ない毛利氏にとって敵の兵力を分散させ、その虚ををついてこちらの兵力を集中して勝つしか手段がないわけです。 それゆえに、「厳島を取られたら毛利には勝ち目はない」という虚報をわざと知らせます。見事に陶軍の厳島への誘引が成功して、本土側を侵攻する部隊と厳島に押し寄せた主力に分断させた。
 また少数の軍が大軍に勝ためには敵の大将を討ち取るしかありません。暴風雨を押して夜陰に厳島に上陸した毛利軍は山越えの奇襲作戦で陶軍を混乱させ、島ゆえに逃げ場のない大将陶晴賢を討ち取りました。 宮尾城で足止めしていた陶軍を後詰め決戦の戦術となり打ち破りました。

 元就は味方を鼓舞するために、この戦いでも包ヶ浦に上陸した時に、獣道から下りてきた鹿を見つけて、「天命が幸運の鹿でわが軍を導く」とか博奕尾の山頂に来た時は「もう博奕に勝ったようなものだ」とか細やかに発言した逸話が伝わっています。吉田郡山の山間部の地方豪族から中国の大大名になった元就ですので、知略にはすごいものがあります。子供たちにはそれは受け継がれなくて関ケ原に敗れて2か国の大名になってしまいます。

    2017-6-15


鹿島城と得居通幸



 今治をヨットで訪ねた折には、来島城には残念にも行くことができませんでした。
松山堀江にもやいを取ることになり、鹿島城に行ってきました。

 鹿島城で活躍した得居通幸・とくいみちゆき・1557-1594の時代を概観してみよう。村上海賊の3つのうち村上来島海賊は古くから河野氏に属していたが、秀吉の中国攻めの際に秀吉の調略によりそれに従った。それで、河野氏は毛利氏と共に来島村上氏を攻めて、村上通総は来島城を脱して秀吉のもとに逃れた。兄であったが庶流ゆえに嫡男の通総に譲った得居通幸はこの鹿島城に籠り守りぬいた。毛利氏と秀吉が和議を結んだことから容認される。秀吉の四国攻めでは先方を果たす。朝鮮の役で死亡する。


kasimazyo 01.jpg
 村上水軍の戦いの図


kasimazyo 07.jpg
 鹿島城跡 現伊予北条市沖合


kasima zyo 03.jpg
 鹿島城 案内


kasimazyo 04.jpg
 来島通総 肖像

 わずかに石垣が残るところがあるだけです。主郭も2の段も小さなものです。でも急峻な崖で成るこの城は落とすのに困難であろうと思われます。井戸が必ずあるはずですが、見当たりませんでした。こんな小島で頑張った得居氏はたいしたものです。

 今は野生の鹿をまじかに目にすることができるのみです。


kasimazyo 05.jpg
 2の段  鹿がうろついています


kasimazyo 06.jpg
 残っている石垣か?

島の歴史も古く神功皇后がこの島に立ち寄り眺めた岩や髪を洗ったという岩の伝説が残っています。


kasimazyo 08.jpg
 神功皇后の御野見立ちの巌 昇って見ると素晴らしい瀬戸内海が

   2016-12-8


村上来島海賊
http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-9


 

村上来島海賊


村上海賊3氏族のうちこの来島に城を構えて割拠したのが来島村上氏です。早くから河野氏に臣従した。秀吉の中国攻めの際に調略を受け入れて信長に従う。これにより本能寺の変のあと、秀吉の大返しの時に、毛利氏は追いかけようにも兵糧弾薬が不足しできなかったといわれている。背後で来島村上氏の活躍があった。

kurusima 88.jpg
村上3氏族で上図のように瀬戸内のすべてを押さえられます



kurusima 89.jpg
 来島城

kurusima zyo 01.jpg
ヨットから見た 来島城跡

来島村上氏の統領について


村上通康 1519-1567
 河野家の家臣であり来島水軍の総帥。1541年大山祇神社を攻めた大内水軍を撃退させた。1555年厳島の戦いで毛利氏への援軍として勝利する。
 ここで述べた甘崎城主として家臣の村上吉継がおり、通康の死後ですが、1576年に信長との戦いで毛利氏側として第1次木津川の戦いに参戦。

来島通総 1561-1597
 村上通康の4男として誕生、7歳で家督を継ぐ。1582年に豊臣秀吉に寝返ったため、熊島村上、因島村上、毛利、河野氏に攻められたので、秀吉の元に身を寄せる。秀吉と毛利の和睦後旧領にもどった、来島姓を名乗る。秀吉の四国攻めで伊予風早郡に14000石を得る。慶長の役のときに朝鮮で戦死する。



今回は今治の停泊が1泊しかできなかったので、後日に来島にはいってみたいと思っています。厳島の戦い

   2016-11-5
 

熊島城  村上水軍博物館

  宮窪の瀬戸は大島と伯方島の間の狭い水路・瀬戸で10ノットにのぼる潮流があります。
現在の海図を眺めても暗礁がところどころにあり、とてもそこにあった熊島城にはヨットでは接近できません。 モ-タ-ボ-トのない昔では難攻不落のお城であったでしょう。 でもサイズ的には大きなものではありません。

  nosima 04.jpg
   熊島水軍城

  近くの大島に村上水軍博物館があります。大三島宮浦から今治行きの急行バスに乗って島内バスに乗り換えて行ってきました。


  nosima 01.jpg
   村上水軍博物館


  予約をすると博物館近くから熊島に上陸する観光船があります。通常は潮流体験のようです。

 熊島村上水軍は長男が相続しただけあって最大の海賊衆であった。 毛利氏の盛況の契機となった厳島の戦いで大きな貢献をした。 また、信長との、石山本願寺に兵糧を運ぶ、木津川口の海戦で、毛利に与して勝利しました。 けれど 秀吉に疎まれて追放された。
  



  nosima 02.jpg
   雨の熊島 向こうにしまなみ海道の伯方大島橋が見える



  nosima 03.jpg
   伯方島に向かうフェリ-から見た 熊島



         2016-8-28
 
 
 

青影城  因島村上水軍城、資料館

 弓削島から因島土生に高速船で渡り、そこらバスにて因島村上水軍城に行きました。
 いかにもお城のような作りですが、城を模した博物館で元は家老の屋敷があったところ、ふもとにはお寺があり村上水軍菩提寺で墓地があります。


  aokage 02.jpg
   因島村上水軍城・史料館


  
   aokage04.jpg
    村上水軍の墓地


  本当のお城は青影城といい、ここで船を見張り、現在は陸地ですが過去には海が入りこみ船隠しになっていて、青影城の指示のもと出陣したとの館員の説明を聞きました。



  aokage 01.jpg
    中央台地状にあった青影城


 村上吉充因島村上氏の6代当主で、父の時代から毛利氏に近い立場であり、厳島の戦いで加勢して大いに毛利氏に貢献した。小早川水軍と共に大友軍と戦い、信長との木津川口の海戦で勝利した。関ケ原で毛利が30万石に縮封されたので1800石(2800石?)になってしまった。


   aokage 03.jpg 
    村上吉充 第6代因島村上当主



     2016-8-22

 

宇多城

  弓削島海の駅にヨットを係留して、1日自転車を借りて島を1周しました。
 その途中に宇多城跡を見てきました。

 中世の頃伊予の国(西条市)から来た宇田源次兵衛源明利という武将が、久司浦に宇田城(宇多城)を築いたと伝えられている。近くに火山というのろしを上げるのに使った山もあります。

久司浦はくじらからの名称と思われ、鯨漁がおこなわれたのか? 今では、数えられる程の集落です。 けれどもお祭りの山車の倉庫もあり、往時がしのばれます。

 島の1周は本島、女木島、弓削島と自転車を借りて行いました。さすがに電動自転車を借りたところは楽です。坂のキツイところが多い宿命になります。 ほかのヨットマンは何もないとのお言葉ですが、そうでもあり、その確認にも意義が有るともいえます。 今後も機会があればやるつもりです。

 弓削島北回りではグリ-ンセンタ-という名称のエコな名前のゴミ焼却施設が崖ぷちにありました。 これはこの島を離れて、ヨットで沖から眺めると、白い巨大な灯台にも見えて、海図にいう顕著な構造物・建物です。こんなものしかありませんが、桜並木がある島が多く、さぞかし春には良いところだと思われます。海からながめても。


  utazyo 02.jpg
   城山 前方の頂き


  utazyo 03.jpg
   久司浦 

  utazyo01.jpg
   案内板


    2016-8-18

 

東山城  塩飽本島笠島

      塩飽海賊の城  


 塩飽海賊の本拠地笠島に東山城がありました。 ここから通行する船を見張って通行料を稼いでいたことでしょう。 支払いの無い船は笠島に置いていた船で急襲して積荷もろとも皆殺しにしたということです。

 海賊というと、最近のソマリア海賊は人質をとって身代金を保険会社からせしめるものになりましたが、カリブの海賊のように襲って積荷を奪うスタイルがイメ-ジとしてもっています。

 日本の海賊は1割ほどの代金をとって支払えば水先案内もしてもらえるスタイルで、カリブのイメ-ジとは違います。いってみるならば、損害保険会社のようなものです。 耕地の少ない島ではそのような生業が必然的に起こったのでしょう。

 本島の北東端にあり、高さ40m、見張り台跡も残っているというが確認できませんでした。天正の頃には讃岐天霧城主香川氏の甥、福田又十郎が塩飽を領して居城を築いたが、長曾我部との戦いに敗れて落城した。

  higasiyama 02.jpg
   空掘あと


higasiyama 03.jpg
   土塁あと



  
  higasiyama 01.jpg

  ほとんど訪れる人が無く、笠島の街並み保存地区を見たあとに、フェリ-の出る泊港に帰る際に山に登り、遊歩道としての設備がありますので、訪れたらどうでしょう。


      2016-8-16

甘崎城

  日本のモンサンミシェル

    大三島の東端の古城島というまことに小さい島に甘崎城はあります。 梅雨の雨のなかでその対岸に行き、やっとさがした地元の人に所在確認をすることができました。

 昔は島は石垣で囲まれていたのだそうです。 明治になって塩田が盛んになり、それにその石を使ってしまった。 小さい島ゆえに由来をしらなければ過ぎてしましそうです。大三島の海の駅で知り合った地元ヨットマンに聞いてもあのあたりに確か小さい島があったなあ..といったところです。

 アマは海人(海武士)をサキは防人の意。 アマを取り締まる役目から海上交通の役割になり、村上水軍の拠点となる。秀吉が覇権を握ると藤堂高虎が改修して属城となった。1608年高虎の移封により廃城となる。



  amasaki 01.jpg
   古城島 甘崎城




  amasaki 03.jpg
   大潮のとき陸続きとなる


  amasaki 02.jpg
   案内板


  近くの陸の駅から観光船で見られる模様。 ヨットでは水深が浅くて行くことができません。 沖を航行したとき海側より見ることができました。

 日本のモンサンミシェルであるのにもったいない遺産です。史実に照らして復元してほしいものです。


       2016-8-14

  甘崎城の支城・岩城新城
  http://endyachts.sblo.jp/article/182021566.html


 

大三島


  格式高い伝統のある島

    安芸の宮島伊勢神宮熱田神宮ほど大三島にある大山祇神社は関東に住んでいるものには知られていません。 しかし日本総鎮守といわれ上記の神宮と同格のような神社です。 浅学の爺にはいまでもこの祇という字が読めません。おおやまづみじんじゃ と呼びます。

  海の守り神として山本五十六自衛隊の参詣がありました。 現にわがヨット停泊中に自衛隊の100トンくらいの艦が20人に程の新米とおもわれる隊員をつれて入港してきました。

  ここは源氏の信仰を集めていて、頼朝や義経の鎧(国宝)の寄進、弁慶や静御前の寄進物があります。



   oomisima03.jpg
     総門

 
   oomisima 04.jpg
      拝殿  国重要文化財




  しまなみ海道が開通して以来、船で参詣する人が減ってので、りっぱな桟橋の右側部分は海の駅ビジタ-バ-スとなっています。 料金はトン税の制度が活用されて我がヨット・31fは1日につき5円の申し訳ないような料金で利用できます。 外国ヨットも時々訪れるとのことです。


   oomisima 02.jpg
   海の駅 大三島宮浦


      2016-8-4
 

塩飽本島 笠島


  塩飽海賊の本拠地

  塩飽海賊の本拠地本島は瀬戸大橋のすぐ近くの島です。 瀬戸内海を航行する船をここから監視できる絶好の位置にあります。 地図をごらんになればお分かりになると分かりますが狭くなっていてここを抜けなければ東西へは航行できません。

  kasasima 04.jpg

   

 地元セーラーでもあまり行ったことがなさそうで、情報不足で、まず丸亀よりフェリ-にて事前偵察に行ってきました。 フェリ-を降りたところにある観光案内所でヨットを泊められるかを確認。 瀬戸内のフェスティバル期間中でなければ可能とのことでした。 そこから徒歩で笠島地区に行ってきました。 ここにはポンツ-ンがあり、ビジタ-は1泊1000円で係留できます。

    kasasima 01.png
    笠島 ビジターバ-ス


 今度はヨットで笠島に訪問しました。瀬戸内での係留はポンツ-ンが一番です。2-3mの潮位がありヨットとカキとの接触を嫌うためです。
 この笠島への航行にはすぐ北側にある向島との間は水深が浅いので本島に沿って笠島に入港する必要があります。爺爺も危うくそちらに行きそうになり水深計の警報音が鳴り響きました。

 笠島は塩飽海賊の本拠地で街並み保存地区であり、大きくはないですが落ち着いた街並みがご覧になれます。宣伝が足りないのでしょう、訪れる人も少なく穴場的存在です。

    kasasima 02.png
    笠島 街並み保存地区
 
 古くから海上交通にかかわりましたが、特に信長・秀吉・家康と関係を持ってきました。徳川幕藩体制でも珍しく、この塩飽地区は人名(650名)という自治制が認められていました。本島に塩飽勤番所を設け代官の派遣ではなく選挙で選ばれた年寄・有力者が交代でここに勤務して自治行政をおこなった。公儀御用と引き換えに税も免除された。

    kasasima 03.png
     塩飽勤番所

 幕末を向え、咸臨丸の渡米の際には水夫として37名が乗船勤務した。 塩飽の弁財船で鍛えた船大工の技術で明治以降は宮大工として活躍。 笠原町並みもその技術で建てられている。

kasasima 05.jpg
咸臨丸模型


      2016-7-22

 






このエントリーをはてなブックマークに追加
 

このエントリーをはてなブックマークに追加
 
ブックマークボタン
 
 
 
 


このエントリーをはてなブックマークに追加