玉島・倉敷

玉島・倉敷




 

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 備中玉島港図




 玉島は平成の大合併で水島や児島とともに倉敷と合併した。 市役所へ行くバスはどこでもよく整備されているのだが、それのない珍しい地区である。バスは新倉敷へ行くように路線がある。

 倉敷は幕府の直轄地として発展し、玉島は備中松山城のある高梁藩の飛び地としてあった。そこは北前船の寄港地として、また藩の蔵米の積み出し湊として栄える。 幕末には河合継之助が山田方谷に学ぶためにここへ立ち寄った。新島襄は備中高松藩の分家であった安中藩に属した。この藩が購入した快風丸の函館寄航に貢献し函館より米国へ旅立った。




 

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  北前船航路



 

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 河合継之助の逗留した船宿跡



 

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 同志社大学より寄付された快風丸模型  西爽亭にて展示


 歴史的街並み保存地区があり見どころもあるのであるが、案内板が整備されておらず残念である。 この街並みが残ったのは幕府老中筆頭板倉勝静を藩主としていたので朝敵玉島は燃やされる運命であった。部下150名と帰藩中の熊田恰(くまたあたか)が玉島で岡山藩に包囲され、藩の責任を一身に負うて西爽亭にて切腹した。玉島は救われた。



 

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 西爽亭 藩主御座所  熊田恰が切腹した血糊が残るという



 

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  大黒屋 1800頃の建物 廻船問屋として使用されていた





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  街並み その1





 

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 街並み その2



  松山城下町(現高梁市)とつながる運河(高瀬通し)で松島港は周辺で栽培された綿花と北海道から来たその肥料のニシンカスや昆布で通商で繁栄した。



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  河口に残る水門



  映画「ALL WAY 3丁目の夕日」の撮影ロケ地になった街並みがあるが、その往時に育った老人故にそれには興味が湧かない。



    2020-7-11