尾高惇忠  おだかあつただ(じゅんちゅう)


 1830-1901

 昨年のNHK大河ドラマの光秀は楽しめたけれど、それに登場した人物で光秀もそうであるけれど自分のブログに挙げようとする人はいなかった。 今回の渋沢栄一では尾高惇忠・おだかあつただ(じゅんちゅう)をまず取り上げよう。 小生は深谷へ惇忠の生家を尋ねる。 名主の家だというが予想したほど大きいものではなかった。 そのことは剣道場として使用されていた倉庫は母屋の前の道路を挟んだところにあり、それを含めた総体でないのでそのように思えたのかもしれない。  ここは渋沢栄一の精神を重んじているのか、他の施設も入館料は取らない。 珍しいことである。 今までなら、300円は支払ったであろう。

 尾高惇忠生家

  室内

 尾高惇忠は尾高勝五郎の子として誕生。母は渋沢家から嫁いできたので渋沢栄一とは10歳上の従妹である。 彼は栄一に文武両道の影響を与えた。 また、妹の千代は渋沢栄一の妻となっている。 惇忠は従妹の渋沢喜作や栄一と供に高崎城を奪取して武器を奪い、横浜の外人居留地を焼き払う攘夷を決行し、その後に長州と結んで討幕をする計画を立てる。 弟の長七郎が京都の情勢を持ち帰り中止を説得したのでこの計画を取りやめた。 (ここまで書いて 夕食を食べながら大河を見る。 ちょうど長七郎の惇忠の襲撃計画を中止するように説得する場面を見た)

 惇忠は吉田松陰と同年の生まれである。 襲撃計画を実行していて、うまく長州に逃げおおせれば尊王攘夷の志士としてもっと多く世に知られていたかもしれない。また、水戸の浪士の仲間として一揆に敗れて名もなく死んでいたかもしれません。 頭に血が上っているときに弟の諫めに従えたのは、普通ではできることではない。 柔軟な思考を持つことゆえに出来たということであろう。 先の出来事で弟の長七郎が皮肉にも坂下門外の変に参加するのを諌めたのが淳忠であったのも皮肉である。 その後、彰義隊に参加して脱退し振武隊を結成し渋沢喜作・成一郎や弟の平九郎らと飯能戦争を戦い敗れる。平九郎はそこで見事な自決を行い、淳忠と喜作は函館まで転戦した。
 維新後は維新官僚になった渋沢栄一の縁で官営富岡製紙工場の最初の工場長になり長女の“ゆい”と共に尽力した。明治の改革に貢献して70歳余まで生きた。

  大河ドラマを見たあとのNHKのお知らせで孫の同名の現代音楽作曲家・尾高惇忠(1944-2021)の亡くなった記念公演の知らせを聞いたのも不思議な縁でしょうか。



          2021-5-2