大原美術館

大原美術館

   
   


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 大原美術館は倉敷の美観地区にある。 それは倉敷の絹織・紡績で財を築いた大原孫三郎(1880-1943)が、自身の奨学金において養成して見出した洋画家・児島虎次郎に収集させた芸術品を展示したものである。
小生は高校のクラブで油絵のマネごとをしたことがあります。 その当時は、ミロのヴィ-ナスやモナリザなど世界の名品が日本の美術館へ、それが例え単品での出品であっても、当時の人々には稀有な機会で盛大な観客を集める時代であった。 また、親戚が海外旅行に行くのに飛行場へ父親が見送りにでかけることがあり、それを考えても、とても海外渡航に出かけることは稀有で縁遠い時代であった。また、成人になっても友人はシベリア鉄道経由で欧州に出かけたほどだ。
 教科書に載っている有名な作家の作品を直に見られない時代であり、 それゆえに大原美術館はあこがれの的であった……. 
 今回は実際に行く機会があり、大原美術館を見て大いに期待外れであった。 学生の時から半世紀以上も経てしまったので、海外旅行も高度成長期に急速に普及して、小生でもプラド美術館、ル-ブル美術館、大英博物館などは現地で見たことがある。 テレビでもウフィツィ美術館なども詳細に放映している時代になり、 毎年のようにルネッサンス時代の画家の単独企画展が催されるようになった。 これらの理由でその気持ちは、時代が急激に発展した時期があったがゆえに受容する側が変わってしまったからであろう。あくまで個人的な感想にすぎないのだけれど。 期待が裏切られたと感ずる個人がいたとしても、大原美術館が変化したわけではない。

  貧しかった時代に地方の一個人が私有財産を投じて蒐集してくれた美術作品を現在から判断するのは良くないことだと思う。 限られた予算で海外の一流作品を買うことは無理な話である。 我々は素直によくやってくれたものだと感心しなければなりますまい。 大原孫三郎さんはノブレスオブリ-ジな人だと思います。 孤児の救済や行員の福祉向上、病院の設立など業績もそれに値するものです。



  大原孫三郎の略歴


1880・明治13   倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原孝四郎の3男として誕生
1897・明治30  東京専門学校(早稲田大学)入学
1901・明治34  放蕩のすえ退学し倉敷へ、孤児の救済をしていた石井十次を知り社会福祉活動に興味を持つ。倉敷紡績入社
1902・明治35  工場内に尋常小学校設立、倉敷商行補習校設立、大原奨学会を開設。
1906・明治39  社長就任。 飯場制度を改める。社の利益数百億円をのほとんどを日露戦争で増えた孤児救済にあてる。
1914・大正3  大原奨農学研究所設立し農業の改善を図る、後に名産品となるマスカットや白桃を開発
1919・大正8  大原社会問題研究所設立。 マルクス経済学研究の中心となり、特高ににらまれる
1923・大正12  倉紡中央病院設立
1928・昭和3  幼稚園を作り市民に開放
1930・昭和5  大原美術館開館
1939・昭和14  引退
1943・昭和18  死去62歳

  ここに少数の作品をかかげておきます。 日本人の作品は充実したものがあるように感じます。




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 児島虎次郎 



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 岸田劉生

 

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  青木繁




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 モデイリア-ニ


 
 https://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b04.html

     2020-12-16