023年09月15日
山本五十六 凡将論2
真珠湾攻撃は米国は予知されていた。 それを大統領府は知っていながら、先制攻撃を日本にさせる。 在米日本大使館の怠慢ゆえに宣戦布告通知が遅れ、卑怯な攻撃だと米国民を激怒させた。 米国民はそれまで参戦に消極的であった状況が一変する。 米国政府は望んだ参戦を真珠湾攻撃によりなし遂げた。
後になってこれらのことは云われるようになったが、確かに真珠湾攻撃は戦術的には大勝利で太平洋の米国主力艦を壊滅させた。 しかし、米国海軍は日露戦争以来の大鑑巨砲主義を捨て空母を主力にする方針に変えさせた。 米国は10倍にも及ぶ建造能力を生かし、週に1隻の空母を進水させるようになり、その後の戦争にそれをを使い大活躍させた。 真珠湾攻撃の戦術的成功だけでは戦略には勝てない例となった。
日本は、米国を参戦させずに南下して石油を確保して、インドへ向かい英国を屈服させて勝利する勝利戦略を持っており、真珠湾攻撃により放棄することになる。 また、それまでの日本海軍大戦略・漸減邀撃戦略・待ち伏せ戦略が役にたたないものになった。 その戦略による建艦計画で、日本海軍が営々と造り上げた戦艦大和が役に立たないものとなる。
山本五十六は開戦から1-2年のみは暴れて見せると云いながら、避戦には失敗して、真珠湾をやらせてくれないなら、辞任すると脅迫して海軍戦略を変更させた。
ミッドウエイ海戦では勝てる戦力差がありながら空母のはるか後方の戦艦部隊に座上して指揮して大敗を喫した。 これらのことにより山本凡将論に小生は与する。
林千勝によると五十六は赤い官房長官と云われる風見章と繁く手紙の交換をしていたようだ。風見と米内光政とはとても親しい間柄でさかんに行き来や文通をしていた。風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六がいて、三人で策を練っていた。長男の風見博太郎によると、風見は近衛文麿、山本五十六、米内光政と数多くの手紙のやり取りをしており、終戦後すぐにすべてを焼却した。 それゆえか、何を協議していたかは、戦後明らかになることはなかった。
2023-9-14