スウェーリンク全集 

 



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 Jan Pieterszoon Sweelinck  1562-1621

 オミクロン風邪が全盛の折り、ヨットに乗れない時期になっています。 この時を利用して、ヤン・ピーテルスゾ-ン・スウェ-リンク全集の作成を始めました。 聞きながら作っていますので数か月かかると思います。 スウェーリンクは古楽の鍵盤好きな人でないと馴染みのない人かも知れません。

 彼はオランダ生まれで、父も息子も音楽家である一家に生まれました。後期ルネッサンスと初期バロックの時代に活躍してその時代の代表をする人物になります。 

 小生は20代でオルガン紀行をしたいものだと夢見た時期がありました。死期まじかのこの年齢になっても未だにかないません。パイプオルガンはその頃と比べて、日本にはバブル時代のハコモノ建設が盛んな時代があったせいで、各ホ-ルに設置されるようになっています。 現物の音を聞けるようになりました。 それでも今までに多く聞けた分けではありません。

 パイプオルガンはオーデイオで聴いても、なかなか満足することはできません。古楽好きの老生ですが、このジャンルはそれゆえ得意でないと自覚しています。もう、欧州へオルガンを聞きに行けそうもないと思いますが、少しはこれで慰めになるのでしょうか?

 彼のオルガン作品は小生にはバッハと区別ができません。バッハのオルガン曲は彼の曲より、より壮大になったようにしか聞こえません。 オルガン音痴のせいでしょう。 バッハが彼の作品の上に建ち、それほど近い存在ゆえかもしれません。 

  スウェ-リンク作品番号・SwWVにより整理してYouTUBEで聴けるものを取り上げていきます。

  その1  鍵盤曲  SwWV 253-298
     http://hayame.net/custom40.html#spb-bookmark-811

     鍵盤曲 コラ-ル編曲  <ins>SwWV </ins 299-316
     http://hayame.net/custom40.html#spb-bookmark-812



     2022-2-4


  速魚の古楽全集

 1. バッハ
 2. ヘンデル
 3. モンテベルデイ
 4. シュッツ
 5. パーセル
 6. ダウランド


 
 
 

ヨット 狭水道 まとめ

ヨット 狭水道 まとめ


  瀬戸内の狭水道(ヨット)



 

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  ヨットで通峡したことのある瀬戸内の狭水道



 「ヨットによる狭水道」をまとめました。 それについてはブログやHPに2013年以来の原稿があります。その中の狭水道に関するものを選びました。 そこには本船に関するものもありますが、ヨットにも関係していますので、それも取り上げます。

 40代まで本船の船乗りでしたので、本船では関門海峡と来島海峡には一段と注意を向けています。ここを通る本船船長には特別の水先手当が当時は支給されていました。

 また、残念なことに来島海峡では所属していた船会社の船舶が2隻が外国船と衝突して沈没しています。乗ったことのある船では怒和島水道で、これも外国船と衝突して沈没。 それでボ-スンが亡くなりました。 その事故は小生が休暇で下船した後の事故です。

 自身がの経験した本船の狭水道の航行で一番大変に思ったのは、ドイツ、デンマ-ク、スウエ-デン、ドイツからユカタン半島を1週間で回るコンテナ-フィ-ダ-サ-ビスに従事していた時でした。 その理由はいくつかあります。 そこの海域へは大西洋から暖かいメキシコ湾流が流れ込んでいるせいか、海の温度と大気の温度に違いがあり、春秋夏には霧が発生して視界が悪いこと。 また、当時は欧州と言えども日本程には航路標識設備が充実していないこと。 おまけに、冬には海が凍って砕氷船のサ-ビスを利用する時があることです。

  そこの一番の問題は、この海域は瀬戸内のように島が多く狭水道が多かったことです。 そこには思わぬ潮流が有り、流されて船位を求めると予想外の位置にいる時がよくあった。 船位を求める間隔を短くすることでその偏位に対処した。 これらのことで船乗り人生で狭水道航行に一番苦労したスカンジナビア航路であったと思う。

 話がそれました。 ヨットの狭水道のことでした。  初めてクル-ザ-を買い、処女航海での母港へ廻航の時です。 まだ着岸作業にに自信がないのでそれを避けて、夜はアンカ-を打ち、停泊し睡眠した。 若さにまかせて、毎日1kgの減量を余儀なくされた我武者羅航海となった。  弓削商船高等専門学校が見える沖に停泊し、さて、これから狭水道の航海だ。 来島海峡を避けて船折れの瀬戸(宮窪の瀬戸)に挑む。 そのころは潮流表で流速と転流時を調べて航海する時代であった。 ビギナ-故の間違いか流向を反対に読み水道に出たがヨットは一向に進まない。 それを見かねた地元の人が陸から声掛けしてくれて、反流を教えてくれる。 小さな船溜まりに停泊して転流時を待っことになった。 再挑戦は事なきを得て通狭した。 最初の狭水道の通峡の経験であった。 それ以来この水道は忌避して今日に至る。 とんでもない昔話を聞かせてしまった。 狭水道の航行は、人にもよるけれど、それだけ記憶に残るものになる経験とも言えよう。 船折れの瀬戸にはいずれ挑戦するつもりだ。


  最近、ここに書いたように、狭水道でヒヤリハットをしてしまう。 いろいろ狭水道について取り上げてきたが、このことで大して当てにならないとバレてしまいそうである、この「まとめ」が何かの参考になれば幸いです。



 下記の「まとめ」をクリックすると詳細に飛ぶことができます。



   ヨットと狭水道まとめ

    

   
http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank059.html

    2022-1-31

 
 
 
 

アレキサンドロス

アレキサンドロス

  


        ギリシャ人の物語Ⅲ  塩野七生さんによる

 

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 紀元前336-332  (以下図表は塩野さんの著書による)



 アレキサンドロスは父親のフィリッポスが無ければ存在しない。 父がギリシャの覇権を握り、その子アレキサンドロスには武人としてのスパルタ教育、アリストテレスを招聘しての教育により成った。、その哲人は下記の方針でアレキサンドロスを教育した。

 第1に先人たちが何を考え、どう行動したかを学ぶ。 

 第2は日々にもたらされる情報に対して偏見無く冷静に受け止める姿勢の確立。

 第3は第1と第2に基いて、自分の頭で考えて意志により冷徹に判断したうえで実行に持っていく能力の向上を教えた。 

 アレキサンドロスはギリシャの覇権を土台にして東方の大国ペルシャへ向かっていくことができた。  いわば当時のギリシャの地で花開いた最高の知性とボデイをアレキサンドロスには吹き込まれた。

 単なる天才は稀に生まれるかもしれないが、その素材の上に最高の教育で育てられた人物は歴史的にも稀であろう。 日本の例では、戦闘の天才・義経がありといえども、その失敗は、彼にやさしい兄に恵まれなかったという話ではない、義経の知性がその時代成り立つ趨勢が読めなかったということ。 単なる天才に終わったということだ。




   アレクサンドロス年表



前356  フィリッポスの子として誕生

前343-340頃 レオニダスによる訓練とアリストテレスによる教育

前338  カイロネア会戦 マケドニア大勝、テーベとアテネ軍敗れる

前336  父フィリッポス暗殺される

前334  グラニコスの会戦、  イオニア地方の回復

前333  イッソスの会戦、  ダリウス敵前逃亡

前332  テイロス攻防戦

前331  エジプト入り,無血制覇



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           ガウガメラの会戦までの行軍図   

   
前331 10月 ガウガメラの会戦、 ダリウス再び逃亡

前326    ヒダスペスの会戦、インド王ポロスとの戦い



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       ヒダスペスの会戦とスーザへの帰還


前324  合同結婚式挙行

前323  アレキサンドロス死す



 アテネやスパルタの重装歩兵は市民権を持った特定の少数の階層からなっていた、それゆえにポリスを守る強い使命を持った精鋭になっていた。父フィリッポスはこれを長い槍を持つ農民よりなるファランクスに訓練し、当時ではより強い歩兵へと改革した。

 アレキサンドロスはファランクスの歩兵と共に騎兵の用法で、すなわち、戦闘の勝敗は、騎兵が先陣を切り、速攻に次ぐ速攻により戦場での主導権を得て、そのご歩兵との連帯による展開によりペルシャに勝利した。 また、戦闘時間の短縮で犠牲者を少なくし、兵士が犬死しなくて良いと得心させてリーダ-の価値を高めた。アレクサンドロスの考えるリ-ダ-とは、部下たちの模範にならねばならない存在であり、率先してリスクを冒している様を見せることで、モデルと納得させる存在でなければならなかった。

 理想的なリ-ダ-に率いられたマケドニア兵は広大なペルシャの領土を勝ち取った。 東征から帰還したスーサにて彼は云う。「ヨ―ロッパもアジアも、今では一つの国になったのだ。きみたち全員は、わたしの同国人であり、わたしの兵士であり、わたしの友人でもある。そこで誰もが,同等の権利を享受し、同等の義務を負う。きみたち全員は、一人の王の許で、共に平和に生きていく運命を共有するようになったのだ。」とアレキサンドロスは言った。

  後世にインドまで行ったアレキサンドロスとして有名ではあるが、それはペルシャが大帝国であったということに過ぎないことが分かった。 ギリシャにとっては長年のペルシャによる圧迫をアテネやスパルタ、テ-ベの覇権によっても解決できずに、 マケドニアギリシャ覇権の確立の上に大天才アレキサンドロスの誕生によって跳ねのけたといえる。 大天才はそれまでのギリシャ文明が彼を育てたとも言える。 アテネやスパルタの文化の上に。



     2022-1-29

ヒヤリハットの大畠瀬戸

ヤリハットの大畠瀬戸



 2021年の秋巡航では来島海峡、上関海峡、大畠瀬戸、音戸の瀬戸及び下津井瀬戸を通航した。今思い出すと、ヒヤリハットしたのは大畠瀬戸であった。

 慣れは怖いもので、昔なら潮止まりの前後に橋下を通るように時間調整をしていた。  最近は4-5ノットの連れ潮なら関係は無いということで、今回の北航は笠佐島と大島の間を航行して大畠大橋の中央部を目指して針路をとっていた。 橋の近くでは7ノットに上る連れ潮だグングンと橋桁に接近する。 慌てて橋と並行するようにまで左舷に思いきり舵を切りぶつからずに終えた。リ-ショアに気をつけろとはこのことでした。 流されることを計算にいれて橋の中央を目指すことなく左側に寄って航行すべきであった。


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  大畠瀬戸  我が通航図



 おまけに先に通った内航船の500トン以上もある思われる本船が橋の通過後不自然に右に大きく寄せられたのを目撃していた。 先例があったのです。事故なく幸いにも今回は終えることが出来たが小生のような凡人には予見や先例を後になって気が付くものです。


      2022-1-27


 
 
 

スパルタ

    

       塩野七生さんによる


スパルタとアテネ



 アテネに勝利したスパルタについては「スパルタ教育」程度のことしか小生は知らない。 ペロポネトス戦争に勝ってギリシャの覇権を握ったスパルタは、その後パットすることもなくマケドニアにその覇権を譲った。 塩野さんの「ギリシャ人の物語」により少し分かった気がするのでのでここに記します。


 スパルタの年表・紀元前



1104    建国したと云われる
800-700   リュクルゴスの憲法成立
546     ペロポネソス同盟成立
490     第1次ペルシャ戦役
480-479   第二次ペルシャ戦役、 テルモピュレイの戦い
404     ペロポネソス戦役でアテネに勝利  ギリシャの覇権を握る
395     コリントス戦争 アンキタルキダスの和約
371     レウクトラの戦い、 ギリシャの覇権喪失 


     社会の構成


 2人の、 戦場で戦闘を指揮するのみの権限

 5人のエフェロス、 市民集会で選ばれて再選不可の1年任期、内政と外交に従事

 一万人のスパルタ人戦士・市民権を持つ、 20-60歳の重装歩兵として軍役に従事

 ヘリオイコイ  7万人、手工業や小規模の商業に従事

 ヘロット 16万人、 農奴・農業に従事

 

 ギリシャの陸軍の代表とも言えるスパルタの重装歩兵は歴史を通じて1万人余りであったという。 それは市民権を持つことが出来たスパルタ人であった。この数の兵力でスパルタを維持しアテネに勝利して覇権を握った。 それに役立った制度が今度は衰退の原因となり、わずか70年の期間で衰える。

 5人の内閣ともいえるエフェロスは1年の任期年で再選無の人である。 彼らはリュクルゴス憲法の番人ではあったが戦略的思考のできない人であった。 ペルシャの力を借りてアテネを倒したが、スパルタ人はその傭兵と化して弱体し衰亡していく。

 少数のスパルタ人で自国を支配したのであるが、スパルタはヘロットには収穫の半分しか収奪をしなかった。ヘリオイコイにも安価な税金であったという。 小生にはあの苛烈なスパルタにしては驚き である。

 まずい食い物を食べ華美な生活をしないスパルタ人にはその収入で充分であった。

 スパルタは軍事に特化して若者を訓練・教育し、30歳になってから所帯を持っても、寝る時は宿舎に戻るようなストイックな社会にも衰亡が訪れた。

 作家で都知事であった石原さんが、 かってスパルタを持ち上げるような本や言動があったと記憶にあるが、この本を読んでなんと言うのであろうか。

 全3巻の「ギリシャ人の物語」を5年以上もかかって読み終えたのですが、「ローマ人の物語」も含めてこれを読めば小生にはその後の西欧の歴史はどうでもよくなります。これを学べと言っても、多くのものを学びっとっていないのは事実でしょう。




      2022-1-23





グスタフ・レオンハルトの軌跡

グスタフ・レオンハルトの軌跡


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  NHK FMの古楽の楽しみの番組において、2022年1月11日より5回を連続して藤原一弘さんが解説されて、グスタフ・レオンハルトを取り上げました。

 その放送においてレオンハルトがオランダの戦前の貴族の家に生まれ、ドイツの占領の時代をすごし、バ-ゼルスコラカントルムに学んだことなど、彼の生涯を詳しく語られています。

 また、 レオンハルトは現在のバッハであるとブリュヘンが語っていたエピソ-ドも話された。 まさにレオンハルトは現在のバッハであったと小生も思います。

 藤原さんは皆川達夫先生やドイツで学ぶ。 ここではレオンハルト生涯とその音楽の軌跡を知らしめた。それを放送では当時の良い音源と録音でで聞かせてくれます。 レオンハルトの初期はモダンチェンバロであったことも知りました。彼の演奏はオリジナル楽器のものしか小生はなじみがなかったが、時代を経て古楽が深まるにつれてレオンハルトもオリジナルチェンバロの価値を認めて弾くようになったのですね。

  レオンハルトに対する見識と愛情にあふれた良い番組でした。 藤原さんの語り口も皆川先生の再現のようで落ち着いて聞けます。 皆様にオススメいたします。

 

 
 1. イングランドとイタリアの音楽

 2. フランスの音楽

 3. ドイツの音楽

 4. バッハの音楽

 5. バッハのカンタ-タ

  
     2022-1-19


  レオンハルトを偲ぶ
  http://hayame.net/custom16.html#spb-bookmark-770


  余談



   フロ-ベルガ-を語る藤原さん、このレコ-ドを小生も持っていて当時感動して聞きました。

  https://beataorgan.wordpress.com/2021/04/27/1/    9分

   

ソクラテスの死  塩野七生さんによる

 

 

 

 

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 「ソクラテスの死」については、はっきりとした記憶が無い、高校の倫理社会の時間に学んだのであろうか。 単に「悪法なれどもそれに殉じた死」であったのか、得心のいかないものをずっと老年になるまで持っていた。 

 

 昨年末に1か月余り入院する時があり、新刊を買って以来放置していた塩野さんの「ギリシャ人の物語Ⅲ」を読み終えた。その死が少しは分かった気がしている。 

 

 当時のアテネの裁判は500人の市民による裁判員裁判であった。死刑の判決を受けても厳しく執行されるものではなく、国外退去すれば逃れることもでき、裁判自体も強弁することが無ければ減刑なり無罪なりの判決を得ることができた。 従いソクラテスは確固とした信条・信念によりこの裁判に対処し死刑の判決を得たものと思われる。 

 

 アテネで紀元前399年に行われたソクラテスを裁く裁判で、ソクラテスを告発した側の言い分は次のようなものであった。「国の認める神々を尊重せず、アテネの青年たちに害毒をおよぼした」 それは彼を死に追いやるような告発ではないと分かる。 

 

 大衆は怖いもので、ペルシャに勝利したデミストテレスでさえ救国の英雄をその嫉妬心から敵国に追いやってしまった。 平等の権利を持ち自由な精神を持つ大衆が無ければギリシャの哲学や芸術は起きなかったけれど、それはアテネの交易による発展の上に成り立っていた。 

 スパルタとの抗争でアテネは形勢が悪くなると経済も悪化し不安な気持ちが市民に蔓延した。「もはや自分たちには自分の運命を決める力はないという冷酷な現実は、それが可能と思い込んでいた時代を経験しているアテネの人にとっては耐え難く、憤懣やるかたないの心境であった」この空気の中でソクラテス裁判は起こる。ソクラテスは罪状は認めないが、徴兵に従い公務員まで務めた市民として責務か欠かさなかった。  衆愚が始まりそのイライラとした市民の気分がソクラテスを死に追いやることになる。 「ソクラテスは思索と言動と表現の自由というアテネ人が想像した理念を貫き通し、それにどう幕を引くか。 彼の死に方を見せることは師が弟子に与える最上の教えであった。」「あのような罪を着せられて死なねばならないことを逆手にとって、彼の哲学を完成させた」 

 

  

アテネの興隆するときでも、良きリーダーが大衆を率いていかなければ機能しなかった。「民主主義・デモクラツイアには良き指導者を不可欠とする」ものでないのか。大衆の意見をくみ上げれば良いというものではない。嫉妬や不満の気分がその意見に反映されやすいものと知るべきであろう。 いつも大衆は愚であるとは思わないが、壊れやすいものとして運営しなければ、効率のよく見える専制主義の被害を受けることになる。 

 

 

 アテネの繁栄は70年の短い期間であった。わが人生より短いのかと驚きではある。 アテネの経済的な没落と共にソクラテスは死しギリシャ文明も終焉を迎えるのである。 

 

 20代の時に岩波文庫の多くのプラトンを読んだけれど、この老年になって何も残っておらず。 ソクラテスの死も哲学的な問題として、と言うと小生には手に負えないのかもしれませんが、アテネの経済と凋落とから塩野さんのように述べられると少しわかったような気がしています。 

 

 

   2022-1-18