閑谷学校

閑谷学校(1673より)


            




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 閑谷学校の地図




 かって日本史を学校で学んでいた時に足利学校とか閑谷学校を知ったのですが、その内容にはおぼえがありません。 受験の弊害か熟語・歴史的タ-ムのみ記憶しています。 今度、 閑谷学校を訪れてみた。 JR山陽本線和木駅で下車、そこからバスに乗って閑谷学校へ行きました。 マイカ-で行かなければ不便なところです。 2時間に1本くらいのバス時刻には注意してください。 なかなか自然豊かな場所で紅葉の時期にはとても美しいという。

 閑谷学校は3名君・水戸光圀保科正之池田光政(1609-1682)の一人、岡山藩主光政が日本最古と言われる庶民学校として築いた。あくまで庶民のためで藩校は別にある。 手習い所は123か所ある。学校には領地を持ち政策が変わっても存続できるようにした。 明治3年に藩政改革により閉鎖される。 明治6年山田方谷の発意により再興。 講義が漢学に偏っていたために生徒数が減少して明治10年に休校。 明治14年西毅一らにより英語、数学、漢学を教えて再興。その後公私立を経て中学、高校と変遷して現在の県立岡山閑谷高校・和木高校(統合)の校舎となる。昭和39年にこの地は閉鎖されて教育の場としての歴史を終えた。

 講堂は国宝でほかに24棟が重文に指定されている。





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 校門(鶴鳴門)





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 講堂と小斎  瓦は近隣の閑谷窯で焼かれたもの、 300年は持つといわれている





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 講堂内部





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明治38年の新校舎、 閑谷学校の資料館

 



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  山田方谷はここにも関わった。 資料館展示 





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 文庫と火除け山  1847年火事で宿舎などあ焼けて火事にも気配れている





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 孔子廟と閑谷神社





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 閑谷神社  



       2021-1-29




岡山城

岡山城


 

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 岡山城 再建天守


 岡山城へは確か航行の修学旅行でいったはずなのだが定かではない。当時は今のような興味が薄かったのか感慨も覚えておらず。半世紀以上前にもなる話です。  
岡山城は1597年豊臣5大老のひとり宇喜多秀家が築城する。黒い板張りの外観から烏城とも呼ばれる。 小生が生まれ育った我が名古屋城広島城と共に戦災で焼失した。現在のこの城は再建コンクリ-ト建造されたものである。それが耐震対策を施す必要や現在のものに不満があるので木造・名古屋城の再建プランがあります。

 岡山城は5重の堀で囲まれて2の丸、3の丸を持つ。 本丸が背にする旭川の東には何も防備が無く、ひたすら西方からの敵に備えた城である。安土城を模したつくりと言われる。それは宇喜多秀家正室の豪姫が前田藩の出であるので、加賀の大工の協力を得たといわれるが、彼らは安土城に関わった人々だということからである。 また、安土城がゆがんだ多角形の天守と言われるが同じく多角形平面を持つ岡山城天守である。

 宇喜多氏は関ケ原では西軍に属して敗戦したので八丈島に流刑となる。小早川秀秋に代わり入城したが2年で急死し、池田恒興を祖とする池田氏系の藩主が明治まで続く。


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 月見蔵・現存  重要文化財


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 不明門・再建


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 廊下門・再建


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 旭川から見た天守


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 目安橋


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 旧天守礎石



  岡山城磯田道史氏による歴史解説  12分
https://www.youtube.com/watch?v=68QQeld9bDQ 

  宇喜多秀家岡山城 戦国の名城と名将   6分
https://www.youtube.com/watch?v=W-J_nBBkBhE 



    2021-1-27

 
 

魚島

魚島

  



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 備讃瀬戸を東西に航行していた時に、島にビルが建っているのを見かけたので、気になっていた。 今回新居浜より弓削に行く機会があったので、立ち寄りしてみる。
魚島は愛媛県上島町に属し瀬戸内の真ん中にある島であるが、交通は本土方面の因島と弓削島より町立の連絡船があり、 愛媛県・弓削島には上島町の役場がある。



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   魚島   南方より眺める



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 魚島港入り口風景  離島にしてはビルが目立つ


 港内に入って少しウネリがあるようなので、予定していたところより奥へ行った。 漁具の手入れをしていた老人に尋ねて、その人の勧めでポンツ-ンに係留しようと1本のもやいを取った後でスグに、これの持ち主と思われる漁師さんから怒られてしまう。 しかし、好意により明日までの係留は認めてくれた。 無断で自身の所有のポンツ-ンにヨットを係留されれば怒るのはもっともである。 一応、地元の漁師さんに聞いたつもりであったのだが。 
シングルハンドであるとヨットの着岸は一発できめたいものである。 いつまでたっても着岸に習塾しない小生にも問題ではあるが、ロープを舵にからめてしまった。 11月の海中に潜ってはずす羽目になった、思ったより水温は温かかったけれど。



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 青丸 予定係留地   赤丸 実際の係留地




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 港内 


 洋上から目にしたとビル群は離島振興法で出来た建物であった。観光センタ-や住宅に使われていた。



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 赤丸 係留場所   養殖業者のポンツ-ンに係留させてもらいました



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 青丸 予定していたの係留場所  小さいウネリが入っていた


 最初にイヤな思いをすると後にひきずるもので、この島の印象は個人的に良いものではなくなった。 あとの時間も有効に活用することもなく終わってしまう。残念である。機会があれば気を取り直して訪ねてみたいものだ。


   2021-1-24
 
 
 

川之江城

川之江城

   



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 川之江 地理的位置




 ヨットから見たお城で今までに印象的であったのは40年ほど前に見た松前城そして最近の平戸城それに今回の川之江城である。これからもヨットで訪ねる城廻は続けたいものです。





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 川之江





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 模擬天守  過去を復元されたもののではない 犬山城をモデルにしたとか



 個人的に南北朝の戦いには余り興味が薄いのでその歴史には詳しくない。 河野氏方の伊予の豪族で川野通政がこの城を築かせたものという。 川之江の地理的位置が土佐、讃岐、伊予を結びおまけに海で備中ともつながっていた。 従い、いろんな勢力から攻撃を受け落城している。戦国期には河野氏、三好氏、長曾我部氏、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏とめまぐるしく城主は変わり、1600年の関ケ原の戦いの後で加藤喜明により織豊系城郭と改築された。一国一城の令により喜明が伊予松山城に居城を移し廃城になった。






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  城門  歴史的にどうであったかは不明




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 本丸より川之江港を望む  小さく愛艇が見える




    2021-1-22



  
 
 
 

ヨット泊地選びの成功と失敗

ヨット泊地選びの成功と失敗

  
 現在のヨットクル-ジングには、スマホを使ってNew pec smartで航海支援、Windyで気象支援、さらにGoogl mapの航空図で泊地選びをされていることでしょう。  クル-ジングで成否を決めるのは泊地選びにつきます。 オールドセ-ラ-なので、かっては小型船用簡易港湾案内のみしかヨットの泊地選びには選択肢がなかった。 今では、スマホ1個で航海できるようになりました。

 今回の秋巡航でのヨット泊地選びの成功と失敗をここに述べます。 係留地の選択にはスマホ以上に大きなものがあります。 それはそこに行ったことのある経験者から情報を得ることです。これがあれば事前のスマホによる泊地確認することで事足ります。 今度の中部瀬戸内の巡航での川之江の泊地と新居浜大島での泊地選びの成功と失敗を述べます。

 余談になります、小豆島(香川))から上関(山口)までのヨットの航路選びのことですが。 来島海峡を通るつもりなら、小豆島-仁尾マリ-ナ―今治-上関になるか、小豆島-弓削海の駅-大三島海の駅-上関の2つの航路になるかと思われます。 他に弓削-鼻繰りの瀬戸-御手洗-上関もあります。



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  中部瀬戸内実用ヨット航路



 上記の標準的航路から外れるせいなのか、新居浜マリ-ナはともかく川之江新居浜大島の泊地情報はなかなか手に入るものではありません。そこでスマホ衛星写真から川之江新居浜大島の泊地を選びました。



 1.川之江泊地  失敗例

 西風の強風が2-3日続いていたので、川之江の奥地のふ頭(赤矢印)を選びました。そこに行ってみると下記写真のごとく潮の加減のせいか岸壁の背が高くビットも少なく「もやい」をとるためにとてもシングルハンドでは岸壁に上がることはできなかった。



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 赤矢印は最初に選定地   青矢印は実際の泊地




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 赤矢印の予定岸壁   3-4mの潮汐がある






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 赤矢印の予定岸壁地  反対側から見る




 そこで急遽新港の漁港桟橋に向かう。地図の青矢印地点は黒ゴム製のフェンダ-を兼ねたものが桟橋に4-5か所あったので、その一つにもやいを持って岸壁に上がり、無事係留することができた。 ここは漁獲物を上げるために出来たものであるが、水産物加工業者が参入しなかったので、空きのある岸壁になっている。地元の漁船は反対側の5つほどあるポンツ-ンにとめている。出口近くにあるポンツ-ンにはヨットを着けられそうな気配があったが、確かめていない。 潮の高低があるのでそこのポンツ-ンががベストのような気がしています。

 



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 青矢印の着岸桟橋




 2.  新居浜大島  成功例



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 新居浜大島は上図の新港に着岸した。 旧港は航空写真を見て適当なスペ-スを見いだせなかった。実際に現地で見ても予想どうりであった。
ここは強風が予想されるときには近くの新居浜マリ-ナを利用することになりそうです。




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 ゴム製はしごフェンダ-のある位置にヨットをつけた。





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 旧港  フェリ―桟橋がある



   ヨットマンのための海の駅と泊地
    http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-41 


    2021-1-20

 

美可崎城・千守城・島前城、  因島

美可崎城・手守城・島前城

 
 因島の城 その1  美可崎城・手守城・島前城


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 美可崎城、千守城、島前城

 ヨットを係留した弓削海の駅より船に積んでいた自転車で因島城探索に出かけた。 上弓削よりフェリ-にて(自転車100円)因島家老へ渡る。

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 上弓削の因島家老間の上弓削 フェリ-乗場

  美可崎城

 因島東岸を走って地蔵鼻へ向かう。そこは恋人たちの聖地とかであるが、今回はそこにはいかず岬の先端に美可崎城を訪ねた。

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 美可崎城の入り口ゲ-ト


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 美可崎城図

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 本丸へ

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 本丸から向島を望む


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美可崎城  船隠し

 美可崎城は因島村上海賊の家老南氏が金山氏に通行料を徴収するための見張り城であった。 鞆の浦尾道からの船を見渡せる位置にある。
石田造船のある道を登ってきたのだが、ここの帰りは反対側の道を一気に下って降りた。



  千守城・ちもりじょう


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  千守城

近くの千守城に向かう。なかなか登城口が分からず、いつものように地元の数人に尋ねた。安楽寺の傍から登って行く。気を付けていくようにと注意を受けたが案外と険しいものではなかった。 標高79mの地に本丸を囲んでほぼ円状に4段に築かれている。石垣の残っているものと井戸を見つけた。 山頂の本丸には社が祀られている。
南北朝の時代に竹原小早川氏の一族が居城し、戦国期には因島村上氏の家臣篠塚貞忠の居城という。


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 安楽寺


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 縄張り図


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 石垣


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 井戸


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 千守城本丸からの眺望



     島前城と亀島城(出城)

  因島南部に東岸から西岸へ島を横断する道路があり、そこを自転車で走行する。 途中大山神社がありガソリンスタンド横に釣島箱崎浦の合戦跡の碑を見つけた。 釣島は今は鶴島と呼ばれている。 新居浜大橋で述べた村上海賊の祖が死亡して娘婿と言われる今岡通任が因島へ進出、島前城に本拠を構えた。 信濃の国より村上師清は瀬戸内に下向した。讃岐塩飽を支配し能島に進出。
鶴島箱崎浦の海戦で勝利して因島に上陸し今岡方の武将を破り義弘の明晰を継いだ。この村上師清が能島・来島・因島の村上海賊の祖となる。
 

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  釣島箱崎浦合戦地図

  いつものことであるが、ここもたどりつくにに苦労した。すぐ横の崖の上にあるとわかっているのだけれど何人かの人に尋ねた。
ここだと思って登って行った山は隣の山だったようで藪を書き分け書き分けて行ったところはテレビアンテナを引いているだけの山頂であった。


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  間違えた登山口



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 島前城跡配置図。田中稔因島史考」による


  因島市民会館と芸予文化情報センタ-(図書館)で尋ねて図書館の横の階段を上った空き地だとわかった。

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 海岸道路から見た島前城


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 本当の入り口  土生町図書館横


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 本丸


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 北西方を望む

 島前とは海峡を挟んで亀島がありそこに出城の亀島城があったがゆえの名称であろうか。

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 亀島城

 
     2021-1-16