愛媛の松山城、備中松山城に続き武蔵の松山城をここに取り上げます。
戦国時代に扇谷上杉(おうぎやがつ)氏と古河公方上杉氏、山内上杉氏、北条氏とのこの城をめぐって争奪戦があった。上杉謙信がここを奪取し、これを武田信玄と北条氏康の連合軍が陥落させた。秀吉による小田原攻めの際に前田利家・上杉景勝がここを攻め落とした。これらのように戦国武将の有名人がこの城で戦った。
5年ほど前にも訪ねましたが、それ以来にこの城の整備保守はすすんでいないようです。学術調査も2度行なわれたようで、それによる違いの有る案内板も2種見受けられる。あまり良く整備されていないので他の曲輪を探すのには苦労する。この城は2500人ほどが籠城して戦った規模であるので空堀に囲まれた曲輪が見ることができる。近世の石垣が取り囲む城ではない。現状の縄張りは後北条氏によるものとされる。1601年に家康により廃城となる。
曲輪図
旧調査と思われる案内板 曲輪の名前と配置に違いがある?
左は市ノ川 右は松山城
本曲輪、2の曲輪、3の曲輪、4の曲輪と並んでいる。土橋で連結されていたという。
本曲輪 45m四方
2の曲輪 本曲輪を囲むようにコの字型をしている
3の曲輪 東西18m、南北60mの細長い
曲輪4 東端にある
兵糧倉 本曲輪の北西、 東西20m 南北45m
岩屋堂観音堂があり四国巡礼めぐりがここだけで出来るという。この奥に搦手道があったと伝わるが崖が急峻で上から眺めてみたが、とても下り降りて行くことは出来なかった。
岩屋堂観音 奥に搦手道がある
2020-1-22
船中発策 城廻り
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