河村瑞賢と荒浜湊

  

 

  阿武隈川と荒浜湊

 

   荒浜湊

 

 阿武隈河上流の安達郡地方に天領があった。そこの御米を江戸へ運ぶ必要があった。また、阿武隈川口に接続する貞山堀にて仙台からの舟運も利用された。 河村瑞賢は寛文11年(1671年)に阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回し伊豆半島の下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米し、新たな航路である外海江戸廻りの東廻り航路を開いた。 

 

 河村瑞賢滞在地,  武者家 

 浦役人の武者家は現代まで続いて表札は武者さんである。 幕府の代官が検分の際にはここへ泊まり、河村瑞賢も滞在した。しかし雑草が目立つので、現在は他所におられるのかもしれません。



  荒浜小学校と御城米倉庫跡

 米蔵は13棟あったと云う。御城米の他に米沢藩の米や沿岸の薪炭、その他の物資を保管した。

 

  名切地蔵

 ここの河口に流れ着いた木造のお地蔵さん。元あった二本松へ返還してたいそう喜ばれる。 ここで石像のお地蔵さんを新造して安置した。今度の地震で被害を受け、カサ上げ復旧工事があったために移動してこの場所に置くことになったと云う。

 

  川口神社   

  寛永12年(1635年)3月20日、亘理城主伊達成実により勧請された。当時は「新浜(あらはま)湊神社」と呼ばれていた。

享保16年(1731年)11月、阿武隈川の河口が閉塞したため、貨物を運ぶ船(廻船)が荒浜へ入港することができなくなった。この時仙台藩伊達綱村は自ら出馬し、当社で祈祷を行った。すると、河口の閉塞は忽ち解消されたという。

 先の震災により津波の直撃を受けた。

 

  震災で壊れた手水舎の屋根



     河村瑞賢

 

  河村瑞賢 1618-1699

 江戸時代初期の豪商。政商として全国各地の航路開拓や治水工事を指揮。 三重県の貧農の生まれであるが、13歳で江戸に出る。材木屋を営むようになり、明暦の大火で莫大な利益を得た。

 寛文11年(1671年)に阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下する新たな航路である外海江戸廻りの東廻り航路を開いた。翌年には、奥羽山脈を隔てた最上川の水運を利用し、河口の酒田で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島を迂回して伊豆半島の下田に至り、西南風を待って江戸に廻米し、西廻海運を確立した。

    江戸の海運

 ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。



         2025-12-29