5.  会津若松城   鶴ヶ城、黒川城、              会津武家屋敷

 

 

  会津若松地図

 

 在来線にて福島で乗り換え郡山に着く、再び磐越西線に乗り換え会津若松に着いた。循環バスにて七日町経由で会津若松城を訪ねた。

 

 代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、黒川城を中心に広大な版図を築いた。1589年(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼしここ黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封。上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)、徳川家康関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。翌1601年(慶長6年)には蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封。代わって伊予松山より加藤嘉明が入封。1643年(寛永20年)、加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。

 

  縄張り図

 

 バスを降りて大手門を抜けて、北出丸にある武徳殿を経て本丸へ入る。西出丸を覗いて天守へ、廊下門を渡立って二の丸へ、南門を出て三の丸を通って帰る。

  先に見た米沢城にくらべて城跡はよく残っている。 公園のように整備され過ぎずに良かった。 

 

  大手門、  桝形の案内板がある

 

 

  北出丸と雁木

 

 

  武徳殿,  剣道場のような内部

 

 

  西出丸入り口  駐車場がある

 

 

  天守,   1960年鉄筋コンクリート造により外観復興再建

 

 

 

  表門,  奥御殿に通じる門

 

 

 

  雁木  

  雁木という名称は湊にある船からの乗り降りに利用する階段状の構造物と思っていたが、お城にもあるんだ。 大河ドラマの八重が鉄砲を撃ちかかる元場面はここか又は北出丸の雁木であったのであろうか。

 

 

  本丸廊下橋   二の丸へ至る

 

 

 

 

  二の丸南門

 

 帰りは循環バスにて会津武家屋敷を訪れて、白虎隊の愛人地をチラ見して駅に着き、今日はビジネスホテルに宿泊した。

 

 

     会津武家屋敷

 会津藩家老西郷頼母邸で幕末に焼失したものをこの地に再建したもの。 実際は上図のように家老ゆえにお城近くの北出丸に近いところに建てられていた。 図面が残っていたようで当事のままにここで再建されている。 上級武士ゆえに大きな敷地に建てられて藩主を迎える立派な部屋があった。

 

 



  玄関

 


  中庭

 台所や使用人の部屋などよく残っており、当事のようすがしのばれるが、850円の入園料は個人的には高いような気がした。

 

      2025-11-29