お遍路21 36番清龍寺、35番清瀧寺、34番種間寺、33番雪蹊寺、
ヨットで土佐・久礼に停泊しました。翌朝から動き、土佐久礼駅より特急で伊野駅まで行き、そこからタクシーにて35番、36番、34番、33番札所を廻ってきました。最後は桂浜で下車して龍馬像と龍馬記念館を見る。 大昔の高校の修学旅行で桂浜には来たが、もう覚えはありません。路線バスにて高知駅へ行き、JRで久礼に帰る。
36番青龍寺には近くの船溜まりにヨットを着けて訪れる予定でしたが、タクシーのドライバーが間違えてそこへ連れて行ってくれました。そのついでに港を実際に陸から確認すると、水深が浅くヨットを着けられそうもありませんでした。 図らずも座礁を免れたということでしょう。 35番と36番は同名の「せいりゅうじ」と読めて、龍の漢字がサンズイがつくかつかないかの違いですので、運転手が間違えても仕方がないところです。そのことは結果的に幸運であったというべきです。
高知西部地図
36番 清龍寺 ・しょうりゅうじ
弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという.
三重塔
本堂 本尊は、波切不動明王
大師堂
35番 清瀧寺 ・きよたきじ
養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。
平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。 貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。
本尊は、薬師如来
大師堂
34番 種間寺・たねまじ
用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したという。
大師堂
33番 雪蹊寺
空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという。
なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。
本堂、 本尊は、薬師如来です。
大師堂
2024-8-2