2024年07月12日
お遍路16 50番繁多寺、45番岩屋寺、44番大宝寺、51番石手寺、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、48番西林寺 49番浄土寺、
ヨット仲間のUさんが長崎から松山へ会いに来てくれました。 44番と45番の札所は久万高原の山中にあるお寺ゆえに大変であると思われた。松山まで乗って来られた彼の車により、山道を乗せてもらって44番から51番までのお遍路を助けて頂いた。
お遍路 松山図
51番 石手寺
神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。
仁王門、 国宝
三重塔、 重文
本殿、 重文
50番 繁多寺・はんたじ
天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に空海(弘法大師)が留まって修行し現存の山号、寺号である東山繁多寺に改称したという。後に徳川将軍家の帰依を得たことで寺は一時は隆盛をきわめ66坊と末寺100余という大寺となる。
山門
本堂
大師堂
49番 浄土寺
天平勝宝年間(749年 – 757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗したという。
仁王門
本堂、 1482年創建 重文
大師堂
48番 西林寺
伊予鉄道 横河原線 - 鷹ノ子駅 下車 (0.8 km)
大同2年(807年)に空海(弘法大師)が巡錫の折、今の場所に寺を移されたと云われている。日照りに苦しむ里人のため、奥の院になっている杖の渕の清水を湧出させたとも云われている。
本堂、 本尊は秘仏でみるこよができない
大師堂
47番 八坂寺
大宝元年(701年)に、河野玉澄の兄である伊予の国司・越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。このとき8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれ、ますます栄える彌榮(八坂)にも由来している。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。
橋門
本堂、 本尊の阿弥陀如来は50年に1度の開帳
大師堂
46番 浄瑠璃寺
大仏開眼を前にした和銅元年(708年)に布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したという。その後、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興したと伝わる。
案合板
本堂、 本尊は、薬師如来です
45番 岩屋寺
弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。
本堂横にはしごがかけられていて、岩の中腹に登ことができます。
いかにも岩屋寺の風情,本堂, 本尊は、不動明王です。絶対秘仏
大師堂
44番 大宝寺 だいほうじ
百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。
石段を登ると本堂
大師堂
2024-7-12