今治海の駅に停泊して55番から59番札所までお遍路した。 55番南光坊は港から徒歩10分位でいくことができる。そこからはタクシーに手59番国分寺まで参詣することになった。
今治 お遍路図
55番 南光坊
今治市内の街中にある札所である。 寺と云わず坊とつくのはここだけである。というのは、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
山門
本堂
54番 延命寺
聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)行基が不動明王を刻み現在地の北の近見山(標高243.5 m)の山頂に堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年 – 824年)には空海が嵯峨天皇の勅命によって再興した。 明治初年の神仏分離令で四国遍路は神社に参拝することがなくなったことから、本札所の大山祇神社を四国遍路として参拝することがなくなった。 53番54番と同名の札所が続く混乱を避けるため、当寺は通称の延命寺を寺号とした。
本堂
大師堂
56番 泰山寺
空海が川の氾濫を治めたという。地蔵菩薩像を刻み堂宇を建て本尊とした。
境内入り口、 城を思わせるたたずまい
本堂 本尊は地蔵菩薩
大師堂
57番 栄福寺
弘仁年間(810年 – 824年)巡錫に来た空海(弘法大師)が、嵯峨天皇の勅願により、瀬戸内海の風波海難の平易を祈って府頭山々頂で護摩供を修し、その満願の日に海はおさまり海上に阿弥陀如来が影向した。その尊像を山頂に引き上げ堂宇を建て本尊として開基したと云われている。
本堂
58番 仙遊寺
天智天皇(在位661年 – 672年)の勅願によって伊予の大守越智守興(おちもりおき)が堂宇を建立した。本尊の千手観世音菩薩は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったという言い伝えがある。また、40年にわたって伽藍を整備した阿坊仙人という僧が当寺に暮らしていたが養老2年(718年)に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来になっているという。
本堂
大師堂
59番 伊予国分寺
天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。
今回のお遍路でもいくつかの同名の国分寺を訪ねることになる。各県すなわち徳島の15番、高知の29番、愛媛の59番そして香川の80番の国分寺を参詣することになった。
大師堂
2024-7-6