大村藩 勤皇37志士

    

 大村氏は秀吉の九州征伐に味方し、関ケ原では東軍につき本領を安堵され、この地に幕末まで続いた稀有な藩である。 しかし、その領国は狭く2万8千石余りの小藩であった。(実際の石高は5万石余りあったという) それでも大きくはない。

 また、キリシタン大名として南蛮貿易で富を得ていた時がある。 平戸から交易地が自領の横瀬浦と長崎へ変遷する中で益をなしてきた。長崎を教会領へ献上までしている。徳川になり南蛮貿易の益は消え、長崎警護の役回りをこなしてきた。 外国と接する立場にあったゆえに、大村藩は幕末には小藩ながら近代的な武装を整えつつあった。

 幕末の藩論のゆくえはその後の藩の命を決めた。 大藩である福岡藩においては、佐幕派が勝利し多くの勤皇の志士を殺してしまった。ゆえに福岡藩は人材が枯渇して維新には参加せずに終わった。  大村藩も同様に佐幕と勤皇が戦った。 その中で大村騒動・(上)小路騒動という勤皇派の暗殺事件が起きる。家老の針尾九左衛門が襲われて重傷を負い、松林飯山が殺された。 事件が追及され、その犯人の2人の家老と20数名が殺された。 これで大村藩の藩論は討幕に一変し、渡辺昇(わたなべのぼり)が坂本龍馬に頼まれ薩長州同盟締結に貢献した。

 戊辰戦争では官軍の先頭に立って戦い活躍する。 それで、維新後の明治2年に賞典として自国の石以上の3万石を賜った。 薩長10万石、土佐4万石に次ぐもので佐賀よりも多いものであった。 わずかな兵しか持たない小藩にしては立派なものである。

  松林飯山 遭難の碑  上小路


  右から亡くなった順に並んでいる。 中級家臣で13石から406石の家老針尾氏まで記されている

 

 中心メンバー

 

 松林飯山 1839-1867

 

 渡辺昇 子爵


 渡辺清  男爵



 長岡治三郎   物理学者・長岡半太郎の父



 楠本正降 1938-1902、男爵、 県令や衆議院議長を務める

   旧楠本正隆屋敷跡

 旧楠木邸を見てきた。上小路の近くにある。 60石の大村藩の中堅武士の屋敷の状態がよくわかる。

  楠木邸 玄関 、 200円

 

 母屋

 

 庭

 

 

       2023-1-3