源範頼 まとめ

 

1. 源範頼

2. ゆかりの地 1

3. ゆかりの地 2

4 お墓

5. お墓 2

6. お墓 3

7. お墓 4

8. 子孫

 

 

源範頼

 
                  

 1150-1193?

   源範頼は義経と同様な運命になった割には知られていません。地元にゆかりがあると言われるので調べてみました。
 頼朝の異母弟で、義経の異母兄です。遠江国蒲御厨で生まれ育ったので蒲冠者,蒲殿と呼ばれる。兄の頼朝の代官として源義仲(木曽義仲)追討の大将軍となり、上洛して弟の義経軍と伴に義仲を滅ぼす。 一の谷合戦では3万と言われる主力大手軍を率いて戦い、また義経軍は1万の搦手軍を率いてその奇襲により平家に勝利した。その後中国と九州の平氏側の御家人を味方につけ平氏を長門国に孤立させる。そのせいで義経は屋島の戦いで勝利する。続いて壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた。 義経と頼朝が対立した、義経は藤原泰衡の襲撃により自害する。頼朝の奥州藤原氏を滅ぼした軍に参戦する、これが最後の出征となる。 曽我兄弟の仇討事件をきっかけにして謀反の疑いを受ける。伊豆の修禅寺に幽閉され謀殺されたという。

 平家滅亡までは主力を率いて勝利し貢献大です。義経が有名ですが範頼が平家の主力を押さえていたからこそ、義経の奇襲が成功したともい云えます。
 頼朝は封建制の常で兄弟はいつもライバルです。うまく弟たちを使ったともいえますが、3代で鎌倉幕府が滅びる原因にもなりました。


 

    範頼ゆかりの地 その1


       
 1. 蒲さくらは、範頼の杖についていた種が成長して、蒲冠者のいわれから名がついた樹齢800年以上の桜です。蒲桜の根本にある墓石は逃れ住んだ範義のものといわれています。

     

 北本市 石戸蒲さくら 天然記念物


     

 東光寺 範頼創建といわれている


2. 範頼の妻、亀御前は範頼の死を知り、荒川に薙刀を持って身を投げて、その薙刀が常勝寺に残されているといいます。(ここはシナ駐屯第1歩兵連隊供養地の寺でもある)

         

 常勝寺  


 3. 北本市にある高尾阿弥陀堂は亀御前を供養するために建てられたといわれて高尾さくら公園隣にある。 亀御前の石塔と薙刀は常勝寺にここより移されたといいます。

                    

 高尾阿弥陀堂 鐘楼


  4.. 石戸神社は1199年に亡くなった範頼の息女・亀御前の供養のために建てられたといわれている。遺跡堀之内館の中に神社はある。堀之内館は源範頼の住居の地と伝えられている。


              

 石戸神社                
  
 

 石戸神社入口

    
   

 神社の奥にある2つの小さな社この後ろに土塁と堀の遺構がある

                     

 土塁と堀の遺構

  

  石戸神社由来

         
   
     交通

   北本駅西口から北里メデイカルセンター行きバスで15分・190円
    蒲桜行も少数あります。





           2015-7-14

 

     源範頼 ゆかりの地 その2  

 
  源範頼の居館跡は北本にある石戸神社を含む堀之内居館跡と吉見にある現在は息障院というお寺に居館跡の2つです。

 吉見にある居館跡を訪ねてみました。住所は吉見町御所374で御所という地名を今でも残しています。 落ち着いた境内のたたずみです。 庭もよく手入れされています。 南東部にある幼稚園を経営されているようで、財政的に安定しているお寺だとうかがわれます。

 近くに安楽寺があり、範頼が平家の追及を逃れるため稚児僧として隠れ住んだ地と言われています。安楽寺も訪ねました。吉見観音とも呼ばれています。息障院から徒歩で二〇分ほどです。

 ここの本堂と三重の塔は範義が建てたといわれています。戦国の争いで近くの東松山城の戦いのときに焼失しました。現在の建物は江戸時代の再建です。ここは義経の鞍馬寺と同じ立位置にあるお寺ということになります。風情のある良い寺院です。
 

  範頼居館跡・息障院


  

 息障院の門


  

 息障院の本堂


  

 息障院の長屋門


  

 北西角の空堀と水堀


 

 南側の空堀 塀は息障院のもの


 

 南西部から南側空堀を望む




  安楽寺・吉見観音


  

 安楽寺・吉見観音


安楽寺 三重の塔


   2015-9-22

  








   源範頼のお墓 その1 -その4

 
 範頼のお墓は伝説により8か所あります。まだまだありそうです。

 有名なものは伊豆の修善寺にあるものです。範頼は、ここに幽閉され梶原景時に包囲されたとありますので、ここで亡くなった可能性は高いと思います。 その遺骸は家臣のものではないかということで、日本中のあちこちにお墓ができるようになりました。

 後世には地元以外には忘れ去られた人物ですが、これらのお墓の数より、当時では人望もあり評価された人物であったのでしょう。

 源範頼の子孫・吉見氏が能登や広島・安芸郡に領地を構えたところから、逃亡伝説もそこにはあり、お墓もあります。生きていてほしいとの願望・希望が伝説として伝えられたました。

                  青字は訪れたところで詳細ペ-ジあり


 1. 埼玉県北本市 東光寺蒲桜下の石塔
    東光寺には範頼の位牌が保管されている




 2. 伊豆市修善寺

 伊豆市修善寺の墓



 3. 横須賀市金沢区

 横浜金沢区 大寧寺の墓


4. 伊予市上吾川 称名寺・鎌倉神社 鎌倉塚 (その4)


  

 夏目漱石の句碑


 蒲殿のいよいよ悲し、かれ尾花        夏目漱石

 木枯しや、冠者の墓撲つ落松葉        夏目漱石




  5. 広島市佐伯区三宅 観音神社  (その2)

 五輪塔



 6.鳥取市河原町の霊石山中腹 

 五輪の塔


  7.. 浜松市南区飯田町 稲荷山龍泉寺 



  
  
 8. 長門市 三隅中の生島山中

 

 

 9. 広島市西区古江上 福蔵寺  (その3)

 

   2015-11-3  2016-10-23

 

   源範頼のお墓  その2

 

 広島の佐伯区にある範頼のお墓に行ってきました。 観音寺にあるということで、そこを訪ねました。 でも境内を探してみてもお墓の五輪の塔は見つかりません。 お寺の住職さんに尋ねました。 範頼の御霊は確かにここにあるそうです。 しかしお墓そのものは、元あるところに残し、広島の発展に伴いは当地に移転した。 

  
  

 観音寺



 源範頼は平家討伐の際にこの近くで本陣を張りました。 当地ではよいことをしたということで、後に伊豆から追われて来たときに、この沖で遭難して、死体が海岸に流れ着き手厚く葬られたといいます。 鎌倉の後期に、子孫の吉見氏この近くで領地を得て、先祖を祀るために、蒲神社と五輪の塔を建立したと伝えられる。

 お墓は観音寺近くの老人ホームの山すそにありました。

 9月からはすぐ自転車で行ける近くにヨットを係留することになりました。 何か範頼に導かれてきたような不思議な気持ちです。

  

 範頼のお墓  五輪の塔



  

  老人ホーム 喜生園 この横にある


        2016-9-24


 



     源範頼のお墓 その3

 

 広島は中心の街区を除けば山と海の間の土地は狭いものです。 従い、山斜面にも高層のマンションや家が建築されています。 こんかい西区にある源範頼のお墓を探してみました。 パソコンの地図で住所から見当をつけ、マリ-ナから自転車で行ってみました。ところがどんどん山を登って行く坂道で、自転車をこげるわけでもなく、押しての山登りになりました。不安を感じつつも見つけることができました。

 今度マリ-ナ探しは、範頼に導かれて、不思議な力で広島へ行ったような気持になりました。不思議な縁を感じた次第です。愛媛、山口、鳥取にも範頼のお墓はあるようです。 できるだけヨットで訪ねたいと思っています。

 

 

 広島学院高校の横に福蔵寺がある

 

 福蔵寺

 

 範頼の五輪の塔

 

   2016-10-29

 

 

  源範頼のお墓 その4


 広島廿日市沖で源範頼が遭難して近辺に2つのお墓があります。すでに、ここで報告済みです。どうして伊予市にあるのかはわかりませんが、伊予は古くからの瀬戸内海上航路の一角であるのは間違いないでしょう。
 松山にヨットで行きましたので、訪ねてみました。 松山市駅から伊予鉄道にのり郡中港の終点で下車します。JR四国の伊予駅も同じと言えるように接近しています。 そこから珍しくタクシ-で行きました。ひなびたところですが、幸い運転手はご存じですぐ近くまで連れていってくれました。称名寺境内の鎌倉神社にそのお墓はあります。大洲の藩主が保護していたとかで、江戸時代に大きくした墓石があります。
 帰りは徒歩で帰りました。20-30分ほどの散策になります。
 

 稱名寺参道の標石 右に行きます

 

 鎌倉神社 この奥にあり


 江戸時代のお墓


左が大きな墓石で中央の小さいものが古くからのものと思われます。


 夏目漱石がここを訪れたときの歌碑



 蒲殿のいよいよ悲し、かれ尾花        夏目漱石

 木枯しや、冠者の墓撲つ落松葉        夏目漱石

  
     2016-12-10

 

   源範頼の子孫   



 源範頼を祖とする家系は残りました。範頼は吉見郷を領して吉見御所と尊称された。今でも埼玉県吉見町にある居館跡といわれる場所は御所という地名が残されています。

 次男の範園と3男源昭が外曾祖母である比企尼(頼朝乳母)から、武蔵国横見郡吉見庄を分与された。範園の子から吉見氏を名乗る。5代目の義世は謀反が発覚して処刑された。その子である尊頼は渋川氏に養子入りしたため嫡流は絶えて家督と所領は2代義春の弟で能登吉見氏の頼隆に引き継がれた。能登と丹波に下向した能登吉見氏,石見吉見氏(範園の庶子の系統)がある。


  範頼配下の武将に小山氏がいました。その一族に吉見氏を名乗るものがいます。範頼の孫・為頼は小山一族の吉見家を相続することで吉見氏を称するようになったといわれています。


      2016-5-2