水野勝成

水野勝成



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  1564-1651


 徳川家中の刈谷城水野忠重の子として生まれた。 戦国武将は主君をたびたび変えてこそ成長すると言われているが、その代表として8度主君を変えたという藤堂高虎を知っている。 他の武将の名前が浮かばなかったが、この水野勝成こそ、その代表と思われる。 信長・家康・秀吉は言うに及ばず、それらの有力家臣多数にも仕えた。 武功第一の武将で一番首、一番槍を数々挙げる。常に部隊の先頭に立って戦うことから、家康から「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じられたほどである。それでも2度先頭に立って戦い、家康の機嫌をそこねた。 彼の遂げた戦歴・戦功の割には報われず最後は福山10万石を与えられたのみである。 福山入封後は藩政に尽力し放浪時代に世話になった三村親成を家老職に迎えた。福山城は10万石にしては壮大な城で西国大名に立ち向かうべき築城をした。藩政にも力を注ぎ、「良将の中の良将」と評されたという。




  水野勝成の主君

父親が織田信長に引き抜かれる
徳川秀忠誕生で乳兄弟となる
本能寺の変後に父と離れ徳川家康につく
小牧長久手の戦いで織田信雄の与力である父に従う
父と仲たがいして家康につく後に父・忠重より奉公構・他家仕官禁止となり出奔する
織田信雄の肝いりで豊臣秀吉に付く仙谷秀久の家中として四国征伐で戦い秀吉より700石を得る
その知行を捨て逃亡
佐々成正に1000石で召し抱えられる、佐々成正が改易
黒田考高に仕官したが秀吉との面会を避けて出奔
小西行長に1000石で仕官
加藤清正に仕官出奔
立花宗茂に仕官出奔
三村親成の食客となる
徳川家康の幕下になり父と和解  跡目相続
徳川秀忠に仕える



     戦歴

1579 天正7   高天神城の戦い  徳川方 対武田勝頼
1580 天正8   第2次高天神城の戦い  織田方  対武田勝頼
1582 天正10  天目山の戦い  織田方  対武田勝頼
1582 天正10  本能寺の変   京都脱出
1582 天正10  天正壬午の乱 黒駒合戦  徳川方 対北条氏忠  
1584 天正12  小牧・長久手の戦い  織田信勝方  対豊臣秀吉
1584 天正12  蟹江城合戦  家康方 対豊臣秀吉
1585 天正13  父忠重に勘当され 雑賀攻め  豊臣秀吉方  対雑賀衆
           四国征伐  仙谷秀久方 対長曾我部元親
1587 天正15  隈部親永の反乱 佐々成政方 対肥後国人ら
            豊前国人一揆  黒田考高方
1589 天正17  天草5人衆の反乱  小西行長方  対天草種元
1600 慶長5   会津征伐 徳川家康方  対上杉景勝
           関ケ原合戦  水野家当主として参戦 大垣城攻めに携わる 対石田三成
1614 慶長14  大阪冬の陣  徳川家康方  対豊臣秀頼
1615 慶長15  大阪夏の陣  徳川家康方  対豊臣秀頼 茶臼山占領で後方遮断で家康を真田信繁より救う
1638 寛永15  島原の乱  


        2020-10-8