瀬戸内にある「お城」によくある例だが、塩田や干拓に城の石材などが利用されてしまった。この例のひとつが笠岡城である。 笠岡城の名称も使われずに「古城山」としている。
そこへ行くには、大きなス-パ-の裏にある山道を登っていく。 笠岡城跡・古城山公園をめざす。 ふもとに関鳧翁(せきふおう)の墓があった。 墓に書かれてある名すら分からないので、知らべてみる。 幕末の漢方医・歌人・国学者である。 彼の歌日記にはペリ-来航のようすが詳しく述べられている。 隣の福山藩が幕末の譜代の大老阿部正弘の地であることから、こんな田舎にもペリ-来航の情報が入手できたのかもしれません。
笠岡城は1556-1558に能島村上水軍の一族、村上隆重が築城。関ケ原合戦後に家康の所領となる。1616池田備中守が入る。1619に備中松山城に移り廃城となる。
村上水軍・海賊衆
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古城山・笠岡城公園 案内図
関鳧翁(せきふおう)・関政方(せきまさみち)1786-1861の墓
このような道が出来ていて車でも行ける
石垣が見えた
公演は平らに聖地されていて、 城との関係は不明 本丸と思われるが。
下を眺めて見る
2020-7-28