ニコライエフスク(尼港)事件

 

 

 

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ニコライエフ、ブラゴヴェンチェンシク、ハバロフスク稚内の位置

 


 

 石光真清「曠野の花」にアム-ル川の流血の項があり、小生はこれと尼港事件は混同していました。そこで書かれているブラゴベシチェンスク虐殺事件は、1900年にロシアコサック兵がその地の中国人を虐殺して、そこから排除した事件です。石光真清にそのことを目撃して生々しくその本に書いています。

 ニコライエフスク事件(尼港)事件は、1920・大正9年 ロシア内戦中にアム-ル川の河口にあるニコラエフスク・ナ・アム-ルで起きた、赤軍パルテイザンによる住民虐殺事件です。 住民は約半数にあたる6000名が殺されたと云われる。パルチザンと中国海軍が共同して、シベリア出兵により駐屯していた日本軍守備隊が攻撃され、日本人居留民や領事一家など731名が虐殺された。パルチザンの中には1000名の朝鮮人(当時は日本人)がいたと云う。
 一方、ブラゴベシチェンスクでは、この時はシベリア出兵で駐留していた日本軍司令官が赤軍と交渉して市内の安寧を保障した。

 日本の救援部隊がそこへ派遣された。ハバロフスクや小樽から救援軍が出動したが、凍結していていて惨劇に間に合わなかった。 これを契機に海軍に砕氷船の建造が後に行われる。

 この事件の赤軍パルチザンの指揮官トリャピ-ツイン他7名はハバロフスクソビエト代表部に逮捕され人民裁判により銃殺となる。 

 尼港事件件を契機に日本軍のシベリア出兵が批判された。

 

 

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 廃墟となったニコライエフ

 

 

 日本政府は北樺太の保証占領し駐屯した。1925年日本はソビエト・ロシアと国交を回復し北樺太を返還した。北樺太にある石油利権と引き換えにこの事件の賠償を求めないことになる。  1941年4月13日に日ソ中立中立条約締結に伴いこの石油採掘権を返還した。 北方領土返還交渉でも明らかのように軍事占領した土地を簡単に返すことはあり得ない。のちに石油を求めて戦争になったように、100万トン余りの石油が北樺太で産出したという。日本人はお人好しであったと言わざる負えません。その後の歴史が変わったかもしれません。

 また、この事件を契機として陽明丸で子供たちを800人を帰国させることになった。これも忘れられてしまったことです。

 

 

  尼港事件年表

1920 大正9

1月10日  国際連盟成立  ベルサイユ条約発効
2月5日 - 慶應義塾大学早稲田大学大学令により設立認可。
3月13日 - ベルリンでカップ一揆が起こる
3月15日  日本で株価が大暴落し、戦後恐慌が起こる
3月19日 - アメリカ合衆国上院がヴェルサイユ条約の批准を否決
5月25日   ニコラエフスクの共産パルチザンが、大日本帝国陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)及び日本人居留民と反革命派ロシア人を全員虐殺する(尼港事件)。
7月13日 陽明丸が子供たちを乗せてウラジオストックを出港
8月26日 - 米国でアメリカ合衆国憲法修正第19条が発効し女性参政権が認められる。
8月 尼港事件により日本が北樺太占領 1925年5月15日まで
11月15日  ジュネーヴ国際連盟の第1回総会開催  八八艦隊計画の第一号艦「長門」竣工

 

1921 大正10

3月18日 - ポーランドソビエト連邦の間でリガ条約が結ばれる。ポーランドは西ウクライナと西ベラルーシを、ソ連は残りのウクライナベラルーシを併合し、ウクライナ人民共和国政府はフランスに亡命した。
11月4日 - 原敬首相が東京駅で刺殺される(原敬暗殺事件)。
11月13日 - 高橋内閣成立
11月12日 - ワシントン会議開催(〜1922年2月6日)

 

1922 大正11

2月6日  ワシントン会議: ワシントン海軍軍縮条約・九か国条約調印
4月3日 - ヨシフ・スターリンロシア共産党書記長に選出
4月16日  ラパロ条約調印(ドイツ・ソビエト政府国交回復)
6月24日 - シベリア出兵: 日本が撤兵を声明
7月15日 - 日本共産党結成(堺利彦・山川均ら)
10月27日 - ファシスト党がローマ進軍を行う
12月30日 - ソビエト連邦成立

 

  石光真清年表

 

     2020-3-18