武城と三ツ木城

   

 

 青線 城跡、   赤線  JR最寄り駅


 前回の加納城と菅谷北城に続き武城と三ツ木城へ行ってきました。この地域では他に石戸城や東松山城もご覧になれます。


    武城

  桶川市の川田谷付近はおそらく荒川(支流かも)が昔は流れていたと思われる川底とみられる地形がある。 大雨の時は冠水してそこを横断する道路は通行止めになる。本来の荒川はここより西に現存する。 その両岸は台地になっていて川下に向かって右岸にこの武城があります。  グーグルマップでは竹内美容室や鈴木医院が目標となります。 

 下写真のように右が美容室で左奥の木立の場所が武城になります。 標識はないので地図の位置で推定する。 大きな民家があり土塁と道路になった堀で囲まれている。本郭と思われるところには小さな神社があり、その南側にはぐるりと曲がった形の土塁があり。 民有地のようですので見かけたらお断りを入れる必要がある。


 竹内美容室の横道を奥へと行く

 

 

 左道が美容室に続く、 右道路が土塁と堀(道路)


 土塁 ( 曲線を描く )


 本郭と思われるところの神社

 


    三ツ木城

  かってここへ写真を撮りに行った記憶があるがブログに載せた覚えはない再訪である。

  ここへはJR桶川駅より川越行きのバスに乗り川田谷支所で下車。 三ツ木城は城山公園の南西側の一角にある。3角の台地の上にあり、南側は現在民家が立っており確認は不自由である。また、単郭であると言われるが公園外の土地でもあり整備もされていないので、周りから眺めるのみとなっている。 整備が望まれる。 二重の堀があったように見受けられるがはっきりとはしない。 誰が建てたのかも判明していない。 鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられている。


 公園にある案内板


 地図


 全体図



 二重堀


 

 東側の堀跡と見られている

 

 堀跡と土塁


  南側より望む


      2021-5-23

 加納城と菅谷北城

    

 早めの梅雨空の中小雨にぬれながらも武城と三ツ木城を訪ねた。 自転車で行きましたがコミュニテイバスなども走っておりそれを利用されるがよいでしょう。 桶川、北上尾や上尾から出ていると思います。 詳しくないので地元で尋ねてください。

 赤字 JR駅   青字 城跡

 


    加納城


  加納城は高速圏央道桶川加納インタ-の北西近くに位置します。 入り口は分かりに道路から少し奥まった駐車場にあります。 下記の写真にある石の案内標識が目安です。
 住宅街の南側に位置して北側土塁が残る。 住宅開発で堀などは消失した模様です。 内郭には私的な神社があった。 隣にある家のもののように見受けられた。 ここの本郭は現在の所有関係は明らかでないが隣の家の土地かもしれません。 ここを案内標識があるので訪ねても損はないでしょう。 

 ジャニ-ズ系の俳優本木さんは桶川の出身と聞いていました。 ここは岩槻の太田氏に仕えた本木氏の居城であったと言われており、どこかで彼はここと血のつながりがあるかもしれませんね。

 石の案内標識

 案内板にある地図

 

 案内板にある古写真


 北側にある土塁



 内郭にある神社(私的なもののようです)





   菅谷北城


  国道7号線近くの埼玉中央青果市場の横“べにばな道り”を菅谷交差点まで行く。その北東100m位に菅谷北城はある。喫茶店山小屋をめざす。
 ここには案内標識が立てられていないので、とくに分かりずらい。 土塁と思われるものを最初に撮ったが、近くの地元の人に尋ねるとそれは土塁ではなかった。 彼に本当の土塁と堀跡、本丸位置を教えてもらうことが出来た。 彼の子供の頃はまだ城跡の痕跡がはっきりしていたそうである。

 本丸跡は住宅が建っており何もありません。 グーグルマップ上の城跡位置は公民館の敷地を示しているが何もない。 アウトドアカフェから20-30m先の交差点道路脇までまで土塁が残っている。 昔はその前には堀跡があったそうである。

 観応の擾乱で足利尊氏にくみした春日八郎行元sこの地菅谷村を拝領してこの城を築いたという。

 

 本丸跡


 公民館  グーグルマップ上の城跡位置

 

  土塁



 北東角地にある土塁

 首都圏近郊の30万都市上尾市でもここらあたりはまだ、開発されていない防風林を兼ねた雑木林があちこちに見られてそこには館跡があっても不思議ではない気がする。それでもここは開発されて城跡は余り残っていないのである。

 


     2021-5-21





村上武吉

 

       

 

f:id:hayame2:20210511214237j:plain

      講談社

 

 

f:id:hayame2:20210511214314p:plain

 能島海賊 村上武吉の海賊城

        

 

f:id:hayame2:20210511214339j:plain

 青字 能島海賊城、 赤字 来島海賊城、 紫字 因島海賊城

 

 

 村上武吉は宣教師のルイス・フロイスにより日本の海賊王と評された。その村上武吉が書いた兵法書(村上舟戦要法)が秋山真之によって日露戦争での日本海海戦に貢献した。また、日本の海運業の主要部分を占める愛媛船主、最近の巨大コンテナ船がスエズ運河座礁事故を起こした船主の今治造船など現在にも彼の遺伝子は大きく日本に影響を与えています。

 村上武吉は因島、来島、能島村上家の頭領というべき能島村上家に1533年に生まれた。能島騒動と言われる家督争いで敗れて九州の菊池家に避難して育つ。叔父の笠岡に拠点を持つ村上隆重の支援を受けて能島に帰り当主を奪還する。陶春賢と毛利元就の戦い・厳島の戦い(天文24年・1555年)では毛利に加勢したと言われています。

 
 能島・来島・因島の三家の村上家は同族意識を持ちながらも組んだり離れたり独自に動いた。 当時の陸地勢力を概観すると九州の大友氏、中国の大内氏・陶氏,安芸の毛利氏、山陰の尼子氏、備中備前の浦上氏、四国の河野氏、近畿三好氏と織田氏らの勢力の伸長に影響を受け村上武吉は挙動した。 彼の最盛期には東は塩飽列島の本島、西は上関や下関の赤間に関を設け本拠地の能島とその支城群で瀬戸内一帯を支配した。


 毛利元就が死去すると村上武吉は毛利氏から大友氏につく。毛利の小早川隆景が能島城を攻めた。来島や因島村上は小早川に従う。孤立した武吉は降伏して毛利家に組み込まれる。 武吉は毛利と織田が対立した第1次木津川の戦いに出て勝利したが第2次では敗れる。豊臣秀吉の中国攻めでは来島村上家が秀吉につく。それで武吉は対立した来島を占領する。しかし本能寺の変後に秀吉と毛利は和睦し、武吉はこれに加わらなかったので再び小早川に攻められて能島を明け渡す。1588年秀吉による「海賊停止令」に背いたと詰問された。安芸竹原(鎮海山城)や筑前に移る。小早川家が隆景から秀秋へ代わると筑前を離れて、再び竹原に戻る。 能島村上の家督を嫡男の元吉に譲り、元吉は文禄・慶長の役で朝鮮で戦う、関ケ原の戦いでは西軍で戦い元吉は死亡する。毛利は防長2か国に厳封され三田尻で船手衆を務める。1604年武吉は72歳で死去。

 秀吉の全国統一と「海賊停止令」により独自の海賊衆としては終わる。 海賊といってもこの武吉の時代までには船荷を襲うようなことは無かった。 武吉の時代には海賊へ警固料を払って海賊を乗せる「上乗り」と呼ばれるシステムがあり、襲われないことの他に潮流の複雑なこの海域を水先人のように航行の安全をはかっていた。 武吉は文化的素養も高く大山祇神社で催された連歌会での多数の連歌が残されている。

 個人的には3年ほどかかってヨット巡行で訪れた地や城が関連付けられて、村上武吉によりまとまってきたように思える。 また、新たに訪れたいところが増えたようだ。

 

 

 

 村上来島海賊

  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-9 

 村上水軍まとめ

  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html 

  甘崎城

  

    http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-221

 

 笠岡城

 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-675 

 本太城

 http://hayame.net/custom27.html#spb-bookmark-704 

 鹿島城と得意通幸

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#鹿島城 

 新居浜大島と村上義弘

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank053.html#新居浜大島 

 上関

 http://hayame.net/custom11.html#spb-bookmark-329 

 

 毛利元就の調略

 http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-318 

 

 

   2021-5-11

 

 

 

深谷散歩

      深谷散歩


 青点は散歩行き先


  ゴ-ルデンウイ-クの谷間の4/30に渋沢栄一の故郷深谷を訪ねた。 JRの駅にしてはお金をかけている深谷駅に着くとすぐにホームから東京駅風の駅舎が眺められる。

 JR深谷駅


 駅中にある観光案内所でレンタサイクルを貸しているところを訪ねる。 2か所あるようだが10時代では深谷シネマにあるところを紹介された。 徒歩5分くらいの場所で元映画館にある土産物屋で貸してくれた。 市役所の横を抜けて深谷城をめざす。  城跡公園になっている場所で模造の塀があるようであるが重みは感じられない。 中学生が公園のあちこちで写生を行っていた。

 

 深谷城跡公園

 埼玉県立深谷商業高校


 深谷上杉氏がここ深谷城へ移る前の城である庁鼻和城(こばなわじょう)へ行こう。 その途中で立ち寄ってみたいような深谷商業高校の校舎が見られた。 その城跡は現在は国斉寺になっており本殿裏に土塁が見られる。大手門と物見櫓の跡は見つけられなくて訪れていない。

 

 

 国済寺にある案内標識



 次は東方城である。 263号線をサイクルして北上するが危うく通り過ぎそうになり戻る、少しは城跡の地形を見極める力が少しあった。 城跡の案内様式を見つける。 その横にある土塁に上る。 城域は保育園の一部らしくかすかに園児の元気な声が聞こえた。 土塁は続いており2m程度の幅残っていた。

 土塁


 続いて皿沼城に向かう。 そこは標識だけで城跡の感じはしない。 明治になって煉瓦の粘土採取のために土塁などが利用されたという。

 皿沼城の標識と借りたサイクル


 いよいよ尾高淳忠と渋沢栄一の生家を訪ねよう。  道案内はスマホのマップに頼っていた、まだ習熟していないらしく反対方向へ行ってしまう。そこで、作業中の市役所の人に尋ねる。 かなり時間を要して尾高惇忠の生家に着いた。  ボランテイアのガイドさんより30分ほど詳しい説明を受けた。 なぜ討幕の尊王攘夷の志士が彰義隊や振武隊に入り幕府を擁護する立場に変わったのか質問を用意していたが、先の人が長引いていたので、ガイドさんいに聞かずに立ち去るこになる。


 尾高惇忠生家  無料

  渋沢栄一記念館と中の家は公園沿いの川に並んであった。 記念館ではアンドロイドとかいうロボットが展示されていて、本物のように動くのに驚かされた。

 

 渋沢栄一記念館 無料


 尾高惇忠の生家と比べて渋沢栄一邸は一万両の取引があった農・商家であったので倉も大きくさすがに豪農・大名主の家という感じであった。 父親が傾いていて困ったこの家に養子に来て一代でここまでになったのはスゴイことです。

 渋沢栄一生家 中の家(なかんち) 無料

 


 予定していた岡部城と岡部藩陣屋跡へは午後4時半までのサイクル返却に間に合わせるためにそこへ行くのは断念した。 欲張りすぎるプランであったとも言えるのでしょう。帰りは4時半の期限までに自転車を返すのに大急ぎでこいでしまった。 片方の太ももがツリそうになってしまう。


      2021-5-6



 

 

尾高惇忠

       尾高惇忠  おだかあつただ(じゅんちゅう)


 1830-1901

 昨年のNHK大河ドラマの光秀は楽しめたけれど、それに登場した人物で光秀もそうであるけれど自分のブログに挙げようとする人はいなかった。 今回の渋沢栄一では尾高惇忠・おだかあつただ(じゅんちゅう)をまず取り上げよう。 小生は深谷へ惇忠の生家を尋ねる。 名主の家だというが予想したほど大きいものではなかった。 そのことは剣道場として使用されていた倉庫は母屋の前の道路を挟んだところにあり、それを含めた総体でないのでそのように思えたのかもしれない。  ここは渋沢栄一の精神を重んじているのか、他の施設も入館料は取らない。 珍しいことである。 今までなら、300円は支払ったであろう。

 尾高惇忠生家

  室内

 尾高惇忠は尾高勝五郎の子として誕生。母は渋沢家から嫁いできたので渋沢栄一とは10歳上の従妹である。 彼は栄一に文武両道の影響を与えた。 また、妹の千代は渋沢栄一の妻となっている。 惇忠は従妹の渋沢喜作や栄一と供に高崎城を奪取して武器を奪い、横浜の外人居留地を焼き払う攘夷を決行し、その後に長州と結んで討幕をする計画を立てる。 弟の長七郎が京都の情勢を持ち帰り中止を説得したのでこの計画を取りやめた。 (ここまで書いて 夕食を食べながら大河を見る。 ちょうど長七郎の惇忠の襲撃計画を中止するように説得する場面を見た)

 惇忠は吉田松陰と同年の生まれである。 襲撃計画を実行していて、うまく長州に逃げおおせれば尊王攘夷の志士としてもっと多く世に知られていたかもしれない。また、水戸の浪士の仲間として一揆に敗れて名もなく死んでいたかもしれません。 頭に血が上っているときに弟の諫めに従えたのは、普通ではできることではない。 柔軟な思考を持つことゆえに出来たということであろう。 先の出来事で弟の長七郎が皮肉にも坂下門外の変に参加するのを諌めたのが淳忠であったのも皮肉である。 その後、彰義隊に参加して脱退し振武隊を結成し渋沢喜作・成一郎や弟の平九郎らと飯能戦争を戦い敗れる。平九郎はそこで見事な自決を行い、淳忠と喜作は函館まで転戦した。
 維新後は維新官僚になった渋沢栄一の縁で官営富岡製紙工場の最初の工場長になり長女の“ゆい”と共に尽力した。明治の改革に貢献して70歳余まで生きた。

  大河ドラマを見たあとのNHKのお知らせで孫の同名の現代音楽作曲家・尾高惇忠(1944-2021)の亡くなった記念公演の知らせを聞いたのも不思議な縁でしょうか。



          2021-5-2
 

 

 IBMとホロコ-スト

 

 

     

 

 

  

f:id:hayame2:20210419101941j:plain

      IBMのパンチカードマシン(写真:ロイター/アフロ)

 

  

  FACEBOOKは小生にとって、陰に隠れて好き放題言わない良い手段であるとの認識を持ち、友人から勧められてそれに加入しました。 今度の米大統領選挙ではGAFAのビックテック企業は現職の大統領の口座すら凍結したり、気に入らない世間の議論言論を統制・弾圧した。 それらのことにやっと気が付いた小生はまずフェースブックの口座を削除した。 友人の少ないゴミみたいな口座ではありましたが。 

 

 LINEはやっていなくて良かった、その社長はサ-バ-を日本においてあると“ウソ”ついていました。 パソコンやスマホから小生のようにどうでもよい情報でも抜かれていると思わなければなりません。 中国・韓国系の機器とソフトには今後十分に注意しなければならない。

 

 ウイグル等のホロコ-ストの件では、今だに、政府は明確な態度を示さず、ユニクロ無印良品も同様です。 市場の大きな部分を占める巨大企業は市場競争の上での経済的な問題であるとして、独占禁止法で対処するとしていましたが、政治的にも文化的にも関わる大きな問題として関心を持って規制していかなければならない。

 

 過去にIBMナチスのホロコ-ストに加担していたという。 抹殺収容所から奇跡的に生き残った両親をもつ作者は戦後になって、なぜあのようにナチスは効率的にユダヤ人を見つけ出してきた理由を探し本にまとめた。 小松原みどりさんが述べています。

 

小笠原みどりの「データと監視と私」

IBMは、この大量の登録作業に最新技術を提供することでナチスに加担したことを、アメリカのジャーナリスト、エドウィン・ブラックは著書『IBMホロコースト ナチスと手を結んだ大企業』(小川京子・訳、宇京賴三・監修、柏書房、2001年)によって暴いた。当時、コンピュータはまだ存在していなかったが、IBMのパンチカードとカード選別システムは、その先駆けだった。IBMは人口調査の表を作成する会社として1898年にアメリカで創立され、創業者ハーマン・ホレリスが発明したパンチカードに穴を開けることで国籍、性別、職業など個人の特性を記録し、何百万というカードを即座に分類するシステムを開発した。

 

  技術は差別と暴力にどう加担するのか IBMとホロコーストの歴史を知る:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)

 

 

  佐藤仁

 「IBMとホロコースト」の著者、IBM初代社長ワトソンが設立に貢献した大学で講演(佐藤仁) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

 

 中国において最新の顔認証技術を使ってウイグル人を区別できるという。 ビックテックの言論統制にも人工知能を使って瞬時にワードを引き出してそれに利用しているという。 最新のIT技術専制国家には有用なものであると判明している。IBMもそうであったように常にそれらのものに注意を払わなければならない。 小生のように知識の乏しいものには知らないうちに利用されるばかりであろうか。

 

 

      2021-4-19

 

 

今!  ぼくらの時代

 今! 僕らの時代


       青山繁晴さんによる


  aoyama 01.jpg
      青山繫晴氏   自民党参院議員


  「ぼくらの国会」というYoutubeの番組にはまっています。 自民党の部会の働きなどをを庶民には知るはずもなく、与党の部会には官僚・大臣が出席して答弁や説明をしてくれるのだと言うことが分かった。 彼の安全保障や危機管理の見識には納得しています。 

 また、彼の連れ合いが水大の漁業学科に小生より後に入学し、他の学科には3人の同級生がいたけれど、この学科では女性が入学していなかった。卒業して甲種2党航海士の免状を取得しています。 そういう女性恋愛して結婚したのかと身内的な親身を勝手に感じています。

 彼は番組のなかで、思いもつかなかった見解を述べています。   それは 「敗戦から76年あって失ったものをほとんど回復していない。 尖閣の問題は日本を目覚めさせる。それは幕末の坂本龍馬や功山寺挙兵時の高杉晋作らによる “国家が青春“という時代と同じ時期を我々は生きている。 面白い時代だ。 中国が武装して領海に入ってきている現実、現に列強が押し寄せてきて幕藩体制では対応できないのと同じである。 わずか4隻の黒船により徳川250年の祖法を守っていたのが崩れて開国し、15年後に明治の時代になった時と酷似していると。」 

 幕末には尊王攘夷の気分が横溢加熱していたのが、今放映されているNHK大河ドラマでの分かる。 渋沢栄一が高崎城を焼こうとしていた志士であったというが、血洗村の農民の息子でさえもこう動こうとしていた時代の気分は今はとても感じられない。 今日は菅首相がバイデン大統領と会談して記者会見をしたようです。 そこには対中国のはっきりとした談話はあったのでしょうか?
 “尊王攘華”の気分が巷に満ちるのはいつのことでしょうか?

 

 
  ぼくらの国会・第138回   ニュースの尻尾「内務省創建-日本は独立していなかった!

    https://www.youtube.com/watch?v=_aHYCoe8EQc&t=1159s  36分


         2021-4-17